2022年4月号(ナイヤガラは父のもの)

《ナイヤガラは父のもの》
昔は、日本人もユニークな人物がいました。
1906年(明治39年)、木村清(せい)松(まつ)という人物が世界一周旅行を思い立って、まずアメリカに行きました。
あるとき、ナイヤガラの滝を見に行って、腕組みをしてながめていると、背の高いアメリカ人が突然、次のように言ってきました(以下の会話は英語)。
「どうです。このすばらしい大きな滝は、あなたの国にはないだろう?」
木村はそのように言われてちょっとむかついたのか、「この滝は私の父のものだ」と言いました。その言葉を聞いた者は、もしかしてこの人物は原住民の子孫かと思ったようで、次のような会話となりました。


「何。おまえのお父さんのものか」
「そうだ。この滝は私の父が造ったものだ。この滝を持っているのは、私の天の父なのだ。私の天の父にしてみれば、この滝ぐらい、小指で簡単に造れるのだ。お父さんのナイヤガラの滝は、全部私のものさ」と答えたのでした。
木村清松はキリスト教の牧師で、キリスト教では神のことを「天の父なる神」と表現しますので、彼はそのように答えたのでした。帰り道、列車にいた百人ぐらいの乗客に、木村は創造主なる神とキリストの救いについて語りました(アメリカ人がみんなキリストを信じているわけではない)。
このことがデトロイト新聞の記者の耳に入ったのでした。


 そして、デトロイト新聞に木村の写真入りで「この日本人の父はナイヤガラの持ち主である」という見出しで彼のことが載りました。
デトロイトでは、すごいヤツが来たということで、木村清松の泊まっていた教会に人々が押しかけてきたので、一週間の特別集会が開かれました。その一週間、いつも大入り満員だったということです。そして、その講演会の名前は、「ナイヤガラの持ち主の息子」でした。
講演会が開かれるまえに広告(英語)が出されたそうですが、広告には次のように書かれていたことがわかっています。
「日本から木村清松きたる。彼の父はナイヤガラを造り、所有す。この日本人に聞け。今週毎晩、マーリン教会にて。」

 多くの日本人の心理の中では、「神」という存在は自分と違う他者ではなく、自分も神の一部であると何となく考えられているような感じがします。結果的に、ある意味で何ものにも動じない神のような存在になることを理想としている場合が多いように思います。しかし現実は、同調圧力に影響され、その場の空気を読まなければ周りから疎外されることを極端に恐れているのがこの日本の現状ではないでしょうか。
むしろ人間はどんなに鍛えようが神のようになることはできず、本質的に弱いものだと認めて全能の神に信頼することで、結果的に周りに動かされない生き方ができるのではないでしょうか。


木村清松も決して強い人間になったのではありません。彼はナイヤガラの滝を見ながら、この世のいっさいのものを創造した神を心の中でほめたたえていたのではないでしょうか。また、帰りの列車の中で木村清松はキリストの福音を語ったと言われていますが、きよい神のまえに罪がある私たちを救うために父なる神が救世主(キリスト)をこの世に送ってくださった恵みを語ったのでした。〈救世主なくして創造主である神は単に遠い存在となります〉
教会ではあなたのおいでをお待ちしています。〔大泉聖書教会牧師 池田尚広〕
(木村清松についての記事:
教会新報社 豊かな人生文庫「木村清松」より)