2023年2月号(私たちの国民の傾向)

《私たちの国民の傾向》

新しい年が始まった時、神社やお寺にお参りに行った方々もおられると思います。その時に、ほとんどすべての人たちが何かの願いをされたと思います。私たちの国においては、どこかの宗教施設に行くということは、何かの願いをささげることと同じことと理解されています。
私の知り合いが以前サラリーマンだった頃、彼は仕事の同僚の何人かをキリスト教会に誘っていました。すると、他の人が彼のことを「アイツは信仰に逃げている」と言っているのが耳に入ってきました。彼はただ「教会に来ませんか」と誘っていただけなのですが、毎週教会に行っているということは、彼は「仕事で成功しますように」などと、教会で熱心に願っているに違いないと思われていたようです。

私自身のことですが昔、受験予備校に行っていた頃、高校生の時にクリスチャンになっていたので日曜にはキリスト教会に行っていました。すると、その態度を見ていた者が私に向かって「おまえは弱い」と言いました。

 その人は私が毎週日曜に教会に通って、「大学に受かりますように」と願っているに違いないと思っていたようです。
私たちの国においては、キリスト教徒やイスラム教徒が習慣的に礼拝することは知っていても、きっと彼らは自分の願いの実現のために宗教施設に通っていると思っている人が多いのではないでしょうか。

 国際ビジネスに関わっている佐々木満男弁護士は、ご自身の著書で次のように述べています。「日曜日に教会で心を静めて聖書の話を聞き、大きな声で讃美歌を歌っているうちに、心のもやもやが消えていく。・・・アメリカの統計では、毎週日曜日に教会に行っている人々は、そうでない人々よりも十年も長生きしているそうだ。天地万物の創造(そうぞう)主(しゅ)(神のこと)を信じるか否かは、人の健康と長寿にまで大いに関係している。」(※2)。
教会に通っている者たちは実際の利益を求めて通っているわけではありません。もし、何かの利益を求めて通っているなら、いつか必ずやめてしまうはずです。なぜなら、教会で面白い話があるわけではなく、今日来て良かったと思うような特別なプログラムが毎週あるわけでもありません。通っている者たちは、一言で言えば神を礼拝するために来ています。(個人の願いの祈りは自分の家でしています)

ところで、私たちは自分の思考を支配しているものから一旦離れることで、新しい視点が与えられることがあります。そのために、座禅を組む人もあれば、大自然の中で瞑想をする人もいます。しかし、それらの行為を通してどれだけ自分という枠から出ることができるでしょうか。神を礼拝する行為は、讃美歌を歌うような行動を通して積極的に自分という枠から出ることを可能にしています。その行動は、最初は恥ずかしさも伴っていることからも、自分という枠から一旦離れる行為であると理解できると思います。

誰でも、何かのこだわりや自分の思いを支配している事柄から離れてみたいと思うことがあるのではないでしょうか。しかし、何かの教えに自分を委ねてみようと思って、たまたま近くにいた人の語ることを受け入れたらカルトだったということもあり得ることです。

ぜひ、大泉聖書教会においでください。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。

〔大泉聖書教会牧師 池田尚広〕

(※1)旧約聖書 詩篇103:(※2) 佐々木満男著「どんなことにもくよくよするな」サイト出版 P.19~20