2021年4月号(自分を信じる)

《自分を信じる》
アメリカ人のプロスポーツのコーチなどがよく「自分を信じろ」と選手を励ましているフレーズを使うのを聞いたことがあると思います。それでいて、そのフレーズを使う者の中にクリスチャンがいたりするわけですが、そのことに対して特に日本人は奇異に感じるかもしれません。
日本の社会は神と人との境のない社会ですから、「自分を信じろ」という言葉が「何でもできるような万能感を持て」というように聞こえる人もいるかもしれません。神と人との境のない社会では、積極的に「自分を信じろ」というフレーズを使う人はそれほどいないのではないでしょうか。

すべてのものは神の一部であり、人も神の一部を構成しているという考えが多神教思想です。なんとなくこのような考えを持っている人は多いと思いますが、この考えですと、信じる対象は結局100%自分自身ということとなります。その状況のもとで「自分を信じろ」と言われたら、言われた者はかなり重く感じると思います。しかし、人間に任された領域のもとで、その人が持っているものを全部出せばよいと信じることは、それほど重くは感じないと思います。
また、私たちの社会は失敗が許されない社会です。この点においても、人間は神ではないという線引きがあるほうがチャレンジできる環境といえるのではないでしょうか。


この日本の社会でキリスト教会へと誘われたら、さらに失敗することが悪であるように説教されることを想像する人もいるかもしれません。しかし、人は失敗する存在だという前提で、キリスト教の経典である聖書は記されています。映画などで、カトリック教会の懺悔(ざんげ)の部屋で、誰かが神父さんに告白しているような映像を見たことがあると思います。それは、たとえば事業を始めて失敗したとか、受験をして受からなかったとか、そのような失敗を告白しているわけではありません。それは、悪いことだとわかっていることをおこなってしまったことを告白している状況です。


失敗という部類のものではなく、人が実際に悪をおこなった場合であっても、その人が神のまえに正直に自分の悪い部分や愚かさを告白するなら、神は赦す(ゆるす)存在として聖書には記されています。ただし、神から赦されるとは、あくまでも神と人との関係のことであり、刑事罰や民事罰も受けなくてよいということではありません(聖書には刑事罰や民事罰の程度まで記されている部分もあります。また、神が人を赦すとは、見捨てることなく存在を受け入れてくださるということです)。


神という存在が悪をおこなった者も赦す存在であれば、失敗に類することまでも、とやかく言う存在ではないことはなおさら明らかです。物事は失敗から学ぶことも多くあります。
ところで、「自分を信じる」ということですが、それは自分のやり方を信じて、とことんまでやってみることと言えるのではないでしょうか。とことんまでやってみて、それでだめなら、やり方を変えればよいのであって、絶対失敗してはいけないという前提で最初からやるということではないはずです。クラーク博士の”Boys, be ambitious”(ホーイズ・ビー・アンビシャス)という言葉は有名ですが、クラーク博士は敬虔なクリスチャンでもありました。
あなたの能力が最大限に発揮され、あなたのやり方で良い結果を見ることができますように。 〔大泉聖書教会牧師:池田尚広〕