2023年4月号(多神教は多様性は生むか?)

《多神教は多様性を生むか?》

日本がバブル景気で沸いていた1980年代、当時の中曽根首相が会議のためにヨーロッパに行きました。その時に、なぜ日本は発展したのかと聞かれ、中曽根元首相は日本の多神教が多様性を生んでいることが日本の発展の原因だと答えたそうです。

ところで、その国の考え方が色濃く表れるのが教育分野ですが、日本の教育は正誤を明確にし「間違わないこと」を目的とした教育です(正誤がはっきりしないレポート形式はあまり採用されていない)。「間違わないこと」が極度に求められる社会で、多様な考え方が尊重されるとは考えられません。今、世界に誇れる日本のもので代表的なものはアニメだと思いますが、アニメーターの多くの者は、むしろ日本の教育スタイルから距離を置いたり、反面教師としている人たちのほうが多い感じがします。

そもそも、その国の宗教観とその国民の思考パターンはそれほど結びついていないと言う人もいるかもしれませんが、そうであるなら、なおさら多神教が多様性を生んでいるとは考えられないこととなります。

「ナルニア国物語」の著者として有名なC.S.ルイス(ケンブリッジ大学中世英文学教授)は、キリスト教弁証家でもありました。キリストを信じた者はみんな同じような人間になってしまうのではないかという問いに対して、「塩」を例にとって次のようなことを語っています。
「塩というものを全然知らない人がいたと仮定してみよう。あなたが彼に一つまみの塩を与えたとする。彼は『・・今あなたからいただいたものは、すごく強い味をしているので他のどんな風味も殺してしまう・・』(と言うだろう。) ところが、ご存じように塩の本当の効果は、それとはまさに正反対なのである。塩は卵や牛の胃袋やキャベツの味を殺すどころか、それらの味を出すことができるのである。・・キリストと私たちの場合もそれによく似ている。」(※1)
C.S.ルイスが生きていた当時のイギリスでも、キリストを信じていない者も大勢いたので彼のようなキリスト教弁証家がいました。そして実際、ルイスの周りのクリスチャンがみんな個性的な者たちだったので上記のようなことを語っています。

日本の多くの人たちが、人も動物も植物もすべては神の一部を構成していると、なんとなく考えているように思います。それはそれで美しい思想のようにも思えますが、キリスト教のような「上の存在」がないので、周りのみんながどう思うかということが、自分の行動を決定するための重要な物差しとなっています。思想家の山本七平氏は、日本人のそのような考え方を「日本教」と表現しています(※2)。みんながどう考えるかということだけが物事を判断する物差しとなるなら、その社会の中で多様性が生まれるとは考えられません。

ただし、「上の存在」を信じることは勇気がいることでもあります。たとえば、あまりにも細々とした命令が毎日与えられていたなら、信じる者の個性は失われる可能性があります。キリスト教の経典である聖書は、人生の目的として「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(※3)と語っていますから、それぞれの個性や能力をもとに自分で判断することが前提で語られています。ぜひ、教会においでくださってその他のことも知っていただきたいと願っています。〔大泉聖書教会牧師 池田尚広〕

(※1)C.S.ルイス著「キリスト教の精髄」p.335-336(新教出版社)

(※2)山本七平著「日本教の社会学」(ビジネス社)など

(※3)新約聖書第一コリント書10章31節