2023年6月号(立派な人や客を神とする文化)

《立派な人や客を神とする文化》
私はある時、マイケル・ジョーダンというバスケットボール選手に、1人のアメリカ人の放送関係者が質問をしているのをテレビで見ました(どのチャンネルか忘れましたが多分BSのどこかのチャンネル)。その人の質問は「日本人があなたを神と呼んでいるが、あなたはどう思うか」という質問でした。その時まで、誰が呼んだかわからないうちにマイケルは神格化されたと思っていましたが、マイケル・ジョーダンを神と呼んだのは日本人だと知りました。ちなみにマイケル・ジョーダンは、その質問に対して「私たちの文化ではちょっと・・・」と答えていたように記憶しています。


ところで、ニューヨークにある「自由の女神」は有名ですが、英語では「Statue of Liberty(自由の像)」と言います。これも、もしかして日本人だけが女神と呼ぶようになったのか調べたところ、中国人も呼んでいました。(中国語:自由女神像)
神という言葉をさまざまな状況で使う日本の習慣の中に、「お客様は神様です」という言葉があります。この習慣は、客を神のように大切にしたいという「おもてなし」から生じた考えだと思います。しかし、その習慣を逆手に取って、サービスを受ける人たちの中で店の人に対して失礼な態度を取る人もいます。ただし、最近では西洋文化の影響で接待係の人に対して「ありがとう」と言う人も、少しは出てきたように思います。


 明確な上の権威(神)のない社会は、人間世界の中でさまざまな上下関係を作ると言えるのではないでしょうか。そして、その中で生きる者は絶えず、相手がどういう立場の人か気にしながら、言葉にも注意して生きていかなければなりません。
キリスト教会は、この世界を無から創造し、いっさいを握っておられる神を伝えています。しかしこのような、いわゆる絶対者である神を信じることは、日本においては信じる者自身も自分中心で協調性を欠いた者になると思われることがあります。しかし、そのように考えるのは、人間が神と同化される日本人特有の傾向と言えます。キリスト教の世界では、自分を神のような存在と思うことは大きな罪に当たります。それから、そのような絶対者である神のまえでは、すべての人があらゆる面で五十歩百歩と言えますから、人の立場や経歴などは小さなことと理解されることとなります。


ところで、よく言われることの中に、地球の環境破壊とキリスト教の絶対神信仰が関係あるのではないかということがあります。旧約聖書の創世記に、神が人間に「地を従えよ」と語った部分がありますから、その言葉が地球環境破壊につながったと解釈するようです。しかし、世界的な環境保護活動のような働きが日本から始まったでしょうか。世界的な環境保護活動は西欧社会から始まっています。それは、人は神のまえに管理者としての責任があるからです。しかし、人が神とされる社会では「絶対的な意味での上の存在」がないので、責任を果たすべき明確な相手が存在しません。


人は皆、神のまえに責任が問われています。ただし神は、いわば親のような存在ですから、いわゆる立派な生き方をするよりも親の存在を認めて欲しいと願っておられます。そして、神ご自身と豊かな関係を持って与えられた人生を歩んでほしいと願っておられます。その豊かな関係は、神の御子キリストを救い主として受け入れることから始まります。ぜひ、教会でさらに詳しいことを知っていただきたいと願っています。〔大泉聖書教会牧師 池田尚広〕