2024年4月号(天は人の上に人を造らず・・・)

《天は人の上に人を造らず、
人の下に人を造らず》
このことばを知らない人はいないと思います。福沢諭吉の著書『学問のすすめ』の中にあるこのことばは、本の中では「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言へり」となっています。「言へり」とは、そのように言われているということです。そして、文脈を見てみると、確かにそのように言われてはいるが、みんな平等だからといって、学び続けることを怠ることなくしっかりと努力しなさいという文章の流れになっています。
福沢諭吉がなぜそのようなことを語る必要があったかというと、日本人が《天は人の上に人を造らず・・・》ということばを、「結果平等」として理解するだろうと予想したからではないでしょうか。「結果平等」とは、人が何かをしようしまいが、結果的にみんな平等だということです。
ところで、福沢諭吉のそのことばはアメリカの独立宣言の序文『すべての人間は、生まれながらにして平等である』を、福沢が意訳したものと言われています。
今年の2月号のIZUMIの表紙で、福沢諭吉が
記した「ひびのをしゑ」(日々の教え)という児童向きの冊子の中の一文を紹介しました。それは、「天」とは西欧ではGOD(ゴッド)というもので、万物の創造者であって、このゴッドの御心(みこころ)に従って生きなさいと福沢が子どもたちに勧めているということでした。
GOD(ゴッド)が明確に理解されているところでは、《天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず》は、人の存在価値は平等だと語っていると正しく理解されることとなります。
人はそれぞれの親から生まれてきますが、その背後にGOD(ゴッド)がおられると信じることができるなら、自分の存在としての価値も信じることができるはずです。西欧社会では、人が平等ということを「結果平等」と誤解しないように注意する必要がないのは、存在価値としての平等を人々が理解しているからではないでしょうか。


ところで、よく言われることの中に、西欧社会が弱肉強食の社会だと言われることがあります。そのように見えるのは、人の存在価値は平等という考えがしっかりあるからでもあります。どういうことかというと、人間の存在価値とその人の立場や経歴は関係ないという考えが明確にあるので、たとえば上の立場の者が人の働きの成果などを躊躇することなく厳しく評価できるのではないでしょうか。(ただし、雇用保険の充実度や再雇用の可能性などは日本以上に欧米社会のほうが上のような気がします)
私たちの社会は、その人の立場や経歴によって人の価値を測ってしまう社会です。周りの人が自分をそのように測ってしまうのはあり得るとしても、自分自身も自分の価値をそのように測ってしまうなら生きる気力を失うことともなります。神を信じることは決して弱いことではありません。そもそも立場や経歴に存在価値を置いていることが正しくないことです。ぜひ、あなたを存在させた神を信じていただきたいと願っています。〔大泉聖書教会牧師 池田尚広〕