映画監督の周防正行監督が作った「シコふんじゃった」という映画があります。この映画は大学の相撲部の奮闘を描いたコメディーです。周防監督はバラエティーに富んだキャストが必要だと思ったのか、部員の一人としてクリスチャンを登場させています。彼はいつもニコニコしていて、何があっても文句も言わないような人物として描かれています。この設定を見て、これが周防監督だけではなく、日本人全体のクリスチャンという存在に対するイメージなんだと思わされたものです。
そのようなイメージがなぜ作られたのかは、いくつかの原因があると思いますが、ひとつは聖人と言われる人たちの存在が原因ではないかと想像します。カトリック教会や正教(オーソドックス)は、いわゆる立派な生き方をした人物に聖人としての称号を与えてきました。それで日本の多くの人たちは、クリスチャンという人たちはみんな聖人になることを目指して生きていると、何となく思っているのではないでしょうか。
聖人としての称号を与えることは中世になってから行なわれた習慣で、最初からあったわけではありません。また、キリスト教の信者は大前提として「全知全能の神」を信じているので、無神論のままで聖人という者を見てしまう者と根本的に違っています。「全知全能の神」を認めたうえでは、聖人はあくまでも人間です。しかし、人間が神とされる日本のような社会では聖人は神として理解されます。
ところで、日本人は大災害を経験したような時に秩序正しく行動するので世界中から評価されています。そして泣いたり叫んだりしないので我慢強い国民としても理解されています。ただし東日本大震災のあと、しばらく経ってから精神的に問題を抱えた人たちが多く出たこともありました。そうであるなら、悲しい時には大声で泣いたり叫んだりしたほうが良いとも言えます。つまり、人は人であって神ではないし、神になろうとしても無理なことだという前提を持ったほうが良いのではないでしょうか。
日本人は認知症になる率が諸外国に比べて高く、その原因はストレスだということがネットのニュースに書かれていました。日常生活でもストレスを抱え、その上に聖人のような人になれと教会で説教されるのは御免だと考える人は多いかもしれません。しかしキリスト教会は、人は人であって神ではないということを語っています。ですから、たとえば日常生活で不条理なことを経験したら抗議をしたりすることは当たり前のことであって、「我慢しなさい」とか「耐えなさい」と教会は指導するだろうと思ってはいけません。
神は神であり、人は人であると明確に理解することは人を自由にする部分は多くあります。そして、むしろ日常生活のストレスを軽くする要素もあります。ぜひ、教会においでください。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。(大泉聖書教会牧師 池田尚広)
〔津田梅子とキリスト教〕
新しい五千円札の表紙の人物に津田塾大学の創立者・津田梅子が採用されることとなりました。
梅子は6歳の時に官費留学をする5人の女性の1人に任命されて明治4年にアメリカに旅立ちました。梅子はランマンという人の家にホームステイしていましたが、その家の夫妻が教会に熱心に通う者たちだったので、梅子もいっしょにキリスト教会に通いました。
ある時、梅子が入信のしるしである洗礼を受けたいと言い出したので、ランマン夫妻は勧めたわけではないのに梅子がそのような決心をしたので驚きます。
梅子たちが日本を出発する時に皇后から「お沙汰書」と共に政府から「洋行心得書」が渡されていました。そこには異国でのキリスト教への回心は厳禁と明記されていたのでした。梅子はまだ幼いとはいえ、そのようなことは理解していました。
明治6年にキリスト教禁教令は解けていたとはいえ、ランマン夫妻はワシントンに近い教会で官費留学生が洗礼を受けると国際問題になるかもしれないと考え、森少弁務士と相談のうえペンシルベニア州の教会で梅子に洗礼を受けるように勧めました。
その教会の牧師は梅子の聡明さに驚き、信仰の確信と受け答えが明確なので幼児洗礼ではなく成人洗礼を授けました。
梅子の信仰は津田塾大学でも受け継がれていて、立派なチャペルが建設され、毎週木曜には礼拝が行われています。
津田梅子の情報:「梅子と旅する」フォレストブックス