《こうでなければいけない》
 名古屋にある「NPO法人青少年生活就労自立サポートセンター」の青木(よしひさ)さんによりますと、日本には、約100万人ぐらいの「ひきこもり」の人がいるそうです。そして、青木さんによりますと、その原因として考えられることは、「こうでなければならない」という思いが本人や親御さんの中で強くあることだそうです。青木さんは、アジアの他の国からも講演の依頼があって出かけたことがあるそうで、アジアの中には日本と同じようにそのような考え方が強い国もあります。
 「こうでなければならない」ということの一例として挙げることができるのは、学校教育についての考え方です。学校には絶対に行かなければならないという思いを私たちは持っていますが、いじめで自殺をする子がいるのは、学校には絶対に行かなければならないという思いがあることが逆に災いとなっているともいえます。

 もうずいぶんまえになりますが、日本がバブルで景気がいい頃、中曽根元首相が外国で日本の発展の原因について語ったことがありました。それは、日本の多神教思想が多様性を生んでいて、その多様性が日本の発展の原因ともなっているという内容でした。しかし、むしろ結果は逆になっているといえるのではないでしょうか。少なくとも言えることは、多神教と多様性思考とは関係がないということです。
 私たちが多種多様な生き方ができる根拠は、自分がこう思うからこう生きるということだと思いますが、かといって、本当に自信を持ってそのように生きている人がどれだけいるでしょうか。しかし、自分勝手な行動が多様性を生むかというとそうではなく、それは単に困難から逃げているだけのことです。
 多様性とは、原理原則を応用したものと言うことができるのではないでしょうか。人間の生きる目的や、もっとも大切にすべきことなど、そのようなものを確かに握って、それを応用することが多様性を生みます。聖書が、人の生きる目的として語っていることの中に、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(1)というのがあります。神の国を求めるとは、神の支配を認めるということであり、神のまえにへりくだるということでもあります。また、神の義を求めるとは神との健全な関係を保つことを意味し、それは神への従順や他の人を大切にすることなどによって実行されます。それと共に、私たちは不完全な者で過ちを犯しやすい者ですから、欠けたところを素直に認めて赦しを求めることも神の義を求めることです。神は私たちの魂の親ですから、裁きを目的としている存在ではありません。親が子どもと共に生きようとしているように、神は私たちと共に生きることを願っておられるお方です。
 
クリスマスは、神が
救い主(すくいぬし)イエス・キリストを私たちにおくってくださったことを祝う時です。救い主(すくいぬし)は、すべての人を魂の親である神との関係の中に入らせるためにおくられました。ぜひ、この季節、教会においでくださり、クリスマスのメッセージをお聞きいただきたいと願っています。教会では、あなたのおいでをお待ちしています。
(1)新約聖書マタイの福音書6:33)

  (大泉聖書教会牧師 池田尚広)