《自由を与える神》

今の社会は、テレビから多くの情報を得る社会になりました。そして、テレビに出てくるコメンテイターの意見は、社会を動かすような力になっているともいえるのではないでしょうか。たとえば、今の社会で何が当たり前の考え方なのか、何が普通のことで、何が普通のことでないかを、そのような人たちの意見に導かれて、無意識に決めさせられているようなこともあるかもしれません。

 ところで「真理はあなたがたを自由にする」という聖書のことばがあります。その真理とは、聖書のことばそのものを指していて、その神のことばを信じることが、すなわち神を信じることでもあります。神を信じるとか、神に頼るとかいうことに、反発を感じる人が多くおられます。そして、そこまで自分は弱くないと言う人もおられます。

 しかし、みんな何かに拠り所(よりどころ)を置きながら生きているのではないでしょうか。その拠り所が、テレビのコメンテイターだったり、スピリチュアルカウンセラーだったり、風水だったり、占いだったりするだけです。あるいは、その拠り所が恋人のことばだったり、親しい友人だったりすることもあると思います。

しかし、人は皆、何かに拠り所を置いているにしても、神に拠り所を置くことが、自分を弱い者だと認めてしまうようで、どうも抵抗感があるという方が多くおられます。特に、男性の方に多くおられます。そして、死ぬ間際になったら、考えてもいいという方もおられます。

それは、神を信じるということが、自分をまったく否定しなければならないと考えていることが一つの原因です。神を信じることは、自己を否定することではありません。あなた自身がなくなってしまうことでもありませんし、あなたの良さがなくなってしまうことでもありません。

聖書が語っていることを単純に表現すれば、まず言えることは、神はあなたの魂の親であるということです。人の魂は実際の肉親によって造られたのではなく、神によって造られたことが示されています。普通の親でも、わが子を奴隷にように従わせることはありません。魂の親ならなおさらです。

 よい親は子どもの特徴が生かされることを願います。神も、あなたの自身の良い特徴がなくなるように導くことはありません。

私たちの社会は、ほとんどすべてのものの価値が比較によって成り立っています。親は、自分の子どものテストの点数を見ると、別の子のテストの点数が気になります。また、比較によって生きていると、周りの人と比べて、あまりずれているのも不安なことです。周りに絶えず気を配らなければならないので疲れることもあります。

神を信じることは、自分は自分でいいという自信を与えます。他人と比べて優れているとか、劣っているとかいうことは、その時の流行や、その時代の考え方を土台にした比較でしかないかもしれません。「真理はあなたがたを自由にする」という聖書のことばを表ページに書きました。神は、比較からの開放による自由を私たちに与えてくださいます。

この世で働いていれば、仕事の内容についての比較は当然のようにあります。しかし、それは、ある能力や成果に対しての比較でしかなく、人間の存在価値の比較ではありません。すべての人間は尊いとか、平等だという表現は世の中に多くありますが、単にそう思っただけでは体験の領域まで至りません。そのためには別の人格との関わりが必要です。あなたの家族や、あなたの愛する人が、あなたにあなたの存在価値を体験させるように、第三者である神があなたの存在価値を体験させます。そのためには、神を認めることが必要です。

神を信じるとは、何かの信念を持つとか、信心を持つということではありません。それは、生きている神を認めることあり、自分の神として受けいれることです。神はあなたの魂の親であり、あなたのことをよく知っておられます。そして、あなたがあなたらしく生きることを願っておられます。リンカーンもヘレン・ケラーも神を信じ、自分らしい生き方や自分にできる生き方をしました。あなたが、自分は何かの比較の中で生きていると思うなら、それは本当の自由を得る出発点に立っているのかもしれません。ぜひ、教会においでくださって、神について知っていただきたいと願っています。おいでをお待ちしています。
(大泉聖書教会牧師池田尚広)