《こだわりと使命感》

「こだわり」ということばには、良くないイメージがあります。「使命感」ということばには、良いイメージがあります。
 今から約100年まえ、ハワイに移民した日本人の多くは、ハワイで成功してから日本に戻り、自分の故郷に錦を飾りたいという思いを持っていたそうです。そして、その成功とは、大もうけをするということでした。今の私たちには理解できないことかもしれませんが、当時の人にとって、故郷に錦を飾ることは重要な課題でした。しかし、程なくして厳しい現実に直面することとなりました。夢が破れて酒におぼれ、ばくちや売春などに浸って、日本に帰ることもできない泥沼の状態に陥った人々もいました。
 当時ハワイに渡った人の中に、奥村多喜衛という牧師がいました。この人は、荒廃した日本移民の生活を目の当たりにし、こだわりを捨てて、新たな使命に生きるように勧めたそうです。奥村牧師は、その人たちに向かって、ハワイに根ざし、ハワイの責任ある住民として生きようと語りました。新たな場所での使命に生きようとのメッセージは、やがて禁酒・廃娼運動へとつながり(当時は禁酒運動を必要としていた)、YMCAや学生寮「奥村ホーム」、さらに、日本人慈善病院(現在のタアキニ病院)の設立へと展開しました。日本に帰らなくても、ハワイで故郷の高知城をかたどったキリスト教会の門をくぐり、多くの人が第二の人生をはじめていったそうです。〔移民の歴史:佐藤彰著「順風よし、逆境もまたよし」(いのちのことば社)参照〕

「こだわり」と「使命感」を区別することは簡単なことではありません。目標を達成した人にとっては、こだわっていたことが良い結果を得るための原動力になったともいえます。ただ、「こだわり」ということばは、次元が低いイメージを持っています。そして、「こだわり」とは、あくまでも自分がそう思っていることであって、社会性に乏しいことばでもあります。それに比べて、「使命感」は、高い次元の存在から期待されていることに起源を置いていることばといえます。責任ある市民として生きることを、たとえ法律で謳っていたとしても、それは使命感になるとは思われません。神という存在を示し、神が期待していることを語ることで、使命感が生まれます。それと共に、神は憐れみ深く情け深い存在であることが示されなければ、人は立ち直ることはできません。次のような聖書のことばがあります。

「主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。」(詩篇86:)

「使命感」というと、ちょっと重いことばですが、「憐れみ深い神からの期待」と理解したほうが良いかもしれません。神は、できないことをさせようとする存在ではありません。ぜひ、その神について知っていただきたいと願っています。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。

(大泉聖書教会牧師池田尚広