《滝廉太郎と『荒城の月』》

クリスチャンが少数である日本の社会では、多くの方々のクリスチャンに対するイメージは、その人の知っている少数のクリスチャンによって決定されているともいえます。あなたが知っているクリスチャンはどのような人でしょうか。多分、その人によってあなたのクリスチャンのイメージが作られていると思います。あなたが知っているクリスチャンとして浮かんでくる人が外国人であれば、キリスト教とは外国の宗教というイメージが先行することとなります。

日本にも名のある人で、クリスチャンの方がおられました。滝廉太郎もその一人です。滝廉太郎は1900年10月7日に、当時麹町にあった博愛教会で元田作之進という牧師から洗礼を受けています。洗礼とは、入信式のようなものです。滝廉太郎を博愛教会に導いたのは、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の同級生だった高木チカという人だったことがわかっています。滝廉太郎はその教会で青年会の副部長をし、礼拝のときにオルガンで賛美歌の伴奏をしていたそうです。この博愛教会という教会は、その後、世田谷の砧に移り、聖愛教会という名前に変わっています。

1900年という年は、東京音楽学校が「中学唱歌」のための曲を懸賞募集したさいに、『荒城の月』や『箱根八里』『豊大閣』が入賞した年でした。10月7日には滝廉太郎は洗礼を受け、11月には『四季』(「花」「納涼」「月」「雪」)が出版されました。その翌年、彼はドイツに留学したのですが、結核が悪化したため1902年に帰国し、大分の父母のもとで療養しましたが、翌年24歳の若さでこの世を去りました。

『荒城の月』の曲は、ベルギーの修道院で歌詞がつけられて「ケルビム賛歌」の一曲として歌われているそうです。この曲の中に潜む不思議な静けさと平安が、修道院の人に訴えるものがあったからではないでしょうか。ジムネーズという神父は、『荒城の月』の旋律に「たましいの深い動き」と、祈りと愛を感じとっているということです。滝廉太郎が『荒城の月』を書いたのは、1900年の春ごろであるとされています。音楽研究家の大塚野百合氏は、「彼がキリスト教に入信を志していたころにこの曲が作られたのは興味深く、イエスの愛に触れたとき、今まで経験したことのない平安、心の安らぎを感じたのではないでしょうか」と言っています。

 『荒城の月』の歌詞は、土井晩翠(ばんすい)によって書かれました。土井晩翠はクリスチャンではありませんでしたが、夫人と娘はクリスチャンでした。娘の照子は27歳の時に結核で亡くなりました。臨終の時に、照子は自分のことで悲しんでいる父にテニスンの詩を読んでもらったそうですが、その詩の言葉を通して、彼女は父に「お父様、私の死を悲しまないでください。私は天国でイエス様にお会いします。そして、そこでお父様のために祈り続けます」と言いたかったのではないかと大塚野百合氏は著書に書いています。

土井晩翠は、太平洋戦争が終わってしばらく経った時に、知人の作家山田野理夫氏に次のように語りました。「日本中が荒城そのものだね。・・・衰弱している日本も、必ず春が来る。この希望を持ち、明治以来のミリタリズムを捨てて平和と人類愛を理想とすべきだろうね」(山田野理夫著『荒城の月、土井晩翠と滝廉太郎』)

『荒城の月』の三節に「替わらぬ光、誰(た)がためぞ」という言葉があります。また、四節には「天上影は替らねど」という言葉があります。この言葉の背後には、「天は永遠に変わらない」という思いがあります。『荒城の月』は単に、栄えているものは衰えるという無常の世界を歌っているのではありません。変わらない光があるのだという希望も歌の中には込められています。背後には、最愛の娘の照子が臨終の時に残してくれたものがあるように思われます。

 世界が変わっても、変わらない永遠の存在があるのだという思いは、すべての人に希望となるはずです。しかし、その変わらない存在が、キリスト教の神かどうかという点については、同意していただくためには時間を必要とすると思います。あなたの知っているクリスチャンがあなたに悪い印象を与えている場合もあるかもしれませんし、あなたのほうで誤解していることもあるかもしれません。

 日本には、滝廉太郎のような別の国のキリスト教に影響を与えるような人もいました。キリスト教は外国の宗教ではありません。外国から伝えられたのは間違いないですが、その点では仏教も同じです。ぜひ、キリスト教について、聖書について、イエス・キリストについて知っていただきたいと願っています。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。    (大泉聖書教会牧師 池田尚広)

《参照》大塚野百合著『賛美歌・唱歌とゴスペル』