《永井隆博士のこと》

              『長崎の鐘』
こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ うねりの波の人の世に 
はかなく生きる 野の花よ 慰め励まし 長崎の ああ長崎の 鐘が鳴る


召されて妻は 天国へ 別れてひとり 旅立ちぬ かたみに残る ロザリオの 
鎖に白き わが涙 慰め励まし 長崎の ああ長崎の 鐘が鳴る


この季節になりますと、終戦のことや、原爆のことがマスコミに取り上げられます。

上の詩は、長崎医科大学助教授だった永井隆博士の物語を初めて映画化したときに、サトウハチローさんによって作られた詩です。
 原爆投下の日、永井博士は研究室で仕事をしていました。突然、強烈な閃光(せんこう)に目が眩み、身を伏せようとしました。ところが後ろに3メートルも吹き飛ばされました。起き上がろうとした時、顔と右腕から血がしたたり、降り注ぐガラスの破片のために右の目をやられていることに気がつきました。その後、周りの人たちに対して、医師としてやるべきことをある程度やり終えた後に、家に残してきた緑夫人のことが気になってきました。帰り着いた自宅付近は瓦礫の山、そして台所と覚しきあたりに焼け焦げた骨が・・・。「み・ど・りぃー!」「どこだぁー」焼け残ったロザリオ、緑さんが肌身離さずつけていたロザリオがその答えでした。
 1945年(終戦の年)の11月23日、鎮魂のための野外ミサがとり行われ、信者たちは浦上天主堂の焼け跡に集まって愛する人々のために祈りました。神父による説教の後、信徒を代表して弔辞を読んだのが永井博士です。その原稿が残されていますが、彼はその場で、司祭といえども口にすることがためらわれることを人々に語りかけたのでした。

 永井博士が最愛の夫人を失ったことはみんなが知っていました。そして、二人の幼い子どもたちがまもなく父親を失うであろうことを博士自身が知っていました(強烈な放射線を浴びたので白血病に冒された)。そのような中で弔辞は読み上げられました。
「この原子爆弾は、元来長崎ではなく、他の某市への投下が予定されていたという話を聞きました。その都市の上空が厚い雲にとざされていたため、パイロットは計画を変更し・・・天主堂の正面に流れ落ちたようです。それが事実であれば、アメリカのパイロットは浦上を狙ったのではなく、原爆は神の摂理によってこの地にもたらされたと考えられなくもありません。・・・浦上は、今次大戦において全人類が犯した罪の償いとして祭壇に、屠られ(ほふられ)るべき無原罪の子羊だったのではないでしょうか。・・・燔祭(はんさい)の供え物として浦上が選ばれたことを感謝します。この貴い犠牲により世界に平和がよみがえり、日本に信仰の自由がもたらされたことを感謝します。」
 弔辞が終わった後、重苦しい沈黙の時が流れました。博士の意図するところが理解できないばかりか、憤慨する者さえあったといいます。しかし、クリスチャンとしての熱い思い、純粋で純潔な精神、それが永井博士であり、考え方も然りでした。
    〔ホセ・ヨンパルト著「いちばん大事にすべきことは何か」(新教出版社)より抜粋〕

 永井博士が言わんとしたことは、世界に真の平和が訪れるために、どうしても一度だけ、誰かが犠牲にならなければならないとしたら、浦上がその尊い立場に選ばれたことを感謝しますということでした。自らが悲しみを通っていなければ、決して述べてはいけない考えだと思いますが、それでも、この考えに対してさまざまな意見がおありだと思います。
 神は人間の世界にどのような時に介入されるのか、この世に不正があるのは神がいないという証拠なのか、それとも人間に問題があるのか。いろいろな疑問があると思います。ぜひ、教会においでくださり、神さまについて知っていただきたいと願っています。(大泉聖書教会牧師池田尚広)