《私たちを動かしているもの》

私たちの行動を左右しているものが、私たち自身の過去のさまざまな体験である場合があります。たとえば、無視された経験や、後悔や恥ずかしさ、怒りや、受け入れられたいという感情が、私たちを動かしている場合があります。そのようなものからの解放を、神は私たちに与えてくれます。

過去の、ある出来事に対する怒りが、今の生きるエネルギーとなっている場合もあるかもしれませんが、それは良い精神状態ではありません。過去の後悔や恥ずかしさがいつも思い出されることも、精神的には健全なことではありません。受け入れられた体験が十分でなかった人は、今の人間関係の中で、他人の思いを極端に気にするものです。

このように、私たちの現在の行動は過去の体験と関係しているところが多くあります。良い教訓は忘れるべきではありませんが、忘れることができるなら、忘れたほうがよいことも多くあります。あるいは、明らかに過去の体験が現在の歩みに悪影響を及ぼしているといえる場合もあります。

過去の体験からの開放の手段として、多くの人は心理学的・科学的アプローチを、まず試みてみるものです。しかし、その中にも危険なものが多くあります。

 自己啓発セミナーの中には、自分の中にある悪いもの(過去の事柄に対する怒りや、後悔など)を、他の者を用いて激しく責めさせることによって、精神的に極限状態に追い込むものがあります。そのような状態にあえて追い込んで、激しく泣くような行為をさせることによって、精神的にすっきりさせることを目的としているようです。しかし、このような行動の中に本当の開放はありません。

 あるいは、過去に影響されるのは、その人の弱さが原因であると解釈して、高い理想を何度も告白させるようなものもあります。しかし、過去の行為に対する後悔や恥ずかしさが思い出されることがあるとするなら、高い理想を何度も告白することによって、過去が消せるのでしょうか。あるいは、立派なことをすることによって、過去のマイナスポイントが相殺できて、その人の心の中がすっきりできるのでしょうか。

 キリストはなんで十字架にかかったのかと質問されることがあります。あるいは、殺されそうになって苦しんでいる者が、なんで神なのかと質問されることもあります。

 キリスト教では、よく「罪」(つみ)という言葉を使います。聖書の中には、罪という言葉がよく出てきます。英語では、罪に当たる言葉が数種類ありますが、日本語ではそうではありません。聖書で多く語られている罪は「CRIME」ではなく、「SIN」です。法に反することが「CRIME」で、神の前に正しくない思いや行動が「SIN」です。

 たとえば、法に反するようなことではなく、人間関係のことで、あとで後悔するようなことをしてしまうこともあるものです。あるいは、親や身近な人に対して、憎しみとか、不満を持っていることもあるかもしれません。自分の行為が相手の悪しき行為から導かれたもので、当然の行為のように思えることもあるかもしれませんが、やはり、怒りや憎しみを持ち続けることは、その人自身をも不幸にするもので、それは神の前では罪(SIN)であるのです。

 聖書の中に、神は愛であると書かれています。それは、私たちの中にある怒りや憎しみ、後悔や恥、ねたみ、悪しき思い、そのようなものからの開放を、神が与えてくださるからです。そのようなものは、セミナーでいくら自分を責めてみても、なくなるものではありません。立派な言葉を何度告白しても、消えるものではありません。しかし、神は、ある特別な方法によって、私たちを支配しているものを消してくださいます。それは、神の子(キリスト)が私たちの身代わりに「いけにえ」となってくださったことによってです。

 もちろん、キリストの犠牲を信じることは、神の赦しが与えられるので迷惑をかけた人がいたとしても、その人に謝る必要はないということではありません。人に迷惑をかけたなら、その人に謝らなければなりません。人の前で良くないことは、神の前でも良くないことです。逆に、神に対して謝ることによって、人に対しても謝りたい思いが湧いてくることがあります。これは、神が私たちに与えてくださる恵みの一つです。

 今回は、過去の事柄の後悔とか、そのような事柄に対する解決について書きました。もちろん、神を信じる目的は、そのような理由だけにあるのではありません。人が神を信じなければならない理由は、もっと広い意味があります。それは別の機会に紹介させていただくこととして、今回取り上げた事柄について興味のある方は、ぜひ、ご連絡いただきたいと思います。あるいは、教会においでいただきたいと思っています。 
(大泉聖書教会牧師 池田尚広)