《祈り》
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(新約聖書マタイ7:7)

「アメリカの週刊誌『ニューズウィーク』に、祈りについての特集記事がありました。アンケートの結果、アメリカ人の成人回答者の54%は、一日に一回以上祈ると答えたそうです。そして、そのうち87%の人が、ときに祈りがかなうと信じているということです。」〔安海靖郎牧師ラジオメッセージ集より〕

 この現代社会で、しかもアメリカで、この結果は意外に思われる人もいるのではないでしょうか。アメリカでは、今も信仰が息づいていると受け取ることもできますし、精神をすり減らすようなギリギリのところでみんなが生きていると受け取ることもできると思います。

 私たち日本人は、特定の信仰を持つということについては敬遠する人が多いように思いますが、精神修養とか自己鍛錬という形では多くの人が興味を持っているように思います。一つの例として、座禅を組む人が最近では増えていると聞いたことがあります。ただ、注意しなければならないのは、「精神修養」をかかげているのに、実は新興宗教だったということもあるそうです。日本人の多くが、「精神修養」と「宗教」とを分けて考えたいのは、自分というものがなくなってしまうのがイヤだという理由があると思います。精神修養なら自分というものがなくならないばかりでなく、自分を鍛えるという要素があるが、宗教は頼ることが根本にあるので自分が逆に弱くなってしまうと考えるのだと思います。

上に記した新約聖書のことばは、一般にもよく知られていることばです。このことばからイメージとして伝わってくるように、信じることは決して楽なことではありません。そして、信じることは、決して自分がなくなってしまうことではありません。また、神に求めるということは、何も努力をしないということではありません。当然、人間がやるべきことはやるべきです。私たちは十分準備をしたり、自分を鍛えたりすべきです。

神を信じることが自己鍛錬と違うところは、人間の限界を超えたことについては神の守りを求めることです。自然災害や経済の動向などは、人間が完全に予測することは不可能です。めまぐるしい経済の動きを見つめて仕事をしているアメリカ人は、そこで祈っている人も多いのではないでしょうか。この世の中には、人間がどう努力しても不可能なことがあります。可能なことと不可能なことの境界線をはっきりさせることは、私たちの心を安定させます。

次に知っていただきたいことは、神は人間の「魂の親」だということです。「求めなさい」という命令は、そのような存在が私たちに語っていることばです。正しい親は、子どもが本当に必要なものを知っています。また、正しい親はすぐに欲しい物を子どもに与えるようなことはしません。しかし、良い親が子どものことを本当に思っているように、神は私たちのことを本当に思っていてくださいます。そのように信じて、努力しながら何かを求めるのと、人は単なる自然の原理の中で努力していると思うのとでは、私たちの行動も違ってきます。

 ところで、親が子どもに対して正しい態度を求めるのは当然です。子どもが親に対して素直であることや敬う態度を持っていることは当たり前です。そのようなことを除いて、祈りというものを考えたいという人もいるかもしれませんが、祈りが対象を持っている以上、当然そのことは考慮すべきことです。それと共に祈りは、罪を赦された者となって行う必要があります。神が遣わされたキリストは私たちの罪のための犠牲です。ぜひ、そのことを信じて、神に祈っていただきたいと思います。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。

(大泉聖書教会牧師池田尚広)