《新島襄と八重》

NHKの大河ドラマの影響力は大きく、多くの人が新島八重のことを知るようになりました。ただ公共放送では、あまり信仰的なことは放送されていませんので、ここでは八重の信仰に焦点を当てたいと思います。

八重が公立の学校(女紅場)を辞めさせられた経緯について、新島襄はアメリカの友人に次のように手紙に記しています。

「彼女は盲人である兄上にいくらか似ていて、自分の義務を確信している時には、なんびとたりとも恐れません。彼女は同僚たちがそうすることをこわがった時には、学校のためにしばしば知事に会いに行きました。クリスチャンになってからはときどき生徒たちにむかってキリスト教の真理について語りました。今では、彼女は知事によって解雇されていますが、それは生徒たちが彼女を通してキリスト教を学び、そのため親たちが生徒をやめさせてしまいはしないかと知事が恐れたためです。」(同志社大学編「新島襄の手紙」より)

 1875年(明治8年)10月15日に襄と八重は婚約し、翌年1月2日に、八重は京都で最初にキリスト教の洗礼を受けた人となりました。その翌年に二人は結婚式を挙げました。これは、日本で最初のキリスト教式結婚式でした(司式はデービス牧師)。
 ところで洗礼とは、キリストへの信仰告白と生涯従順の決意を表すキリスト教の儀式です。キリスト教への風当たりが特別に強かった京都で、キリストへの忠誠を告白することは、八重にはそれ相応の決意があったと思われます。

 夫の襄が大磯の旅館で最後を迎えた時、あの豪胆ともいえる八重が泣なきじゃくり、襄の名を呼び続けたそうです。その時、八重が書き留めた言葉で次のような記録が残っています。

「神はこの罪深き妾(わらわ)を何時まで此の世に置き給うか、妾(わらわ)はただ、日夜望むは、天津御国(あまつみくに)に最愛信愛の夫とともに限りなき御栄(みさかえ)を受くることを日夜、祈るのみ」(「亡き愛夫・襄発病の覚」より)
(以上、守部喜雅著「サムライウーマン新島八重」(フォレストブックス)より)

 襄が亡くなった時に書いたそのことばの中から、神が自分の罪を赦し、永遠の御国(天国)で最愛の夫と共に永遠に住ませてくださるという信仰を見ることができます。

「日本は恥の文化」、「西欧は罪の文化」と、言われることがあります。八重は、周りの人がどのように思うかで自分の立場を変えるような人物ではありませんでした。また、人前で恥ずかしいかどうかで、物事を判断する人物でもありませんでした。そのような彼女が聖書を読んで、多分、生きておられる神様に出会ったのではないでしょうか。同志社社史資料センターには、新島八重が使った聖書があり、その聖書の余白には書き込みも見られます。夫がキリスト教だから自分もキリスト教にしなければならないというようなスタートではなく、彼女自身が真剣に神に向かい合ったものと思われます。

 八重のような自分の信念をしっかり持っている人間は、生きる基盤を重要視します。江戸幕府が倒れた時、彼女は命をかけて守るものを失いました。その時から八重の心の中では、永遠に変わらない基盤を求める思いがあったのではないでしょうか。

 これからの時代、ますます八重のような人が求められるはずです。国際化が進み、「あなたの意見を聞かせてくれ」とか「あなたはどう思う?」と聞かれることが多くなります。

 人生とは、すでにある原則を応用することです。偉人と言われる人たちは応用に長けた人たちでした。しかし、ある人は、人生とは一生かかって、生きる目的などの原則を悟るためにあるという理想を持っている人もいます。しかし、原則の発見に明け暮れるということは、その人は明確な原則を持っていないということです。原則を持っていないならば、応用もできません。その状態で短い一生を終えることは、もったいないことです。また、偉人たちが原則としたもの以上のものを、あなたはこれから自分で悟れるのでしょうか。ぜひ、教会においでくださり、聖書を学んでいただきたいと願っています。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。

(大泉聖書教会牧師 池田尚広)