《マニュアルと信仰》

現代の若者はマニュアル(細かい指示が書かれたもの)がないと、何もできないと言われることがあります。若者だけではなく、40歳ぐらいの人まで、その傾向があるとも言われることがあります。これからの時代、何事に対しても個人が自立して的確な応用をするのは難しい時代になっていくのかもしれません。

信仰というものが、なおさら人をマニュアル人間にすると思われることがあります。自分で物事を考えずに、すぐに何かに頼ることをするのではないかと想像するからではないでしょうか。そして、神を信じる行為は、自分で応用する働きをあきらめた者がすると考える人もいます。

今の時代に新しく出てきている信仰には、確かに、このマニュアル主義に対応した信仰形態もあります。一般的に「信仰」とは理解されていない風水も、そのマニュアル主義の追い風に乗って流行しています。その教えは、細かい具体的な指示によって成り立っているからです。また、今はあまり話題にならないカルト(危険な教義を持った宗教、あるいは洗脳的なことをする宗教)も、細かい具体的な指示を信者に与え、自分で考えさせることをさせないようにする特徴があります。

しかし、マニュアル主義からすべての信仰が出てきたのではなく、現代のマニュアル主義からマニュアル主義対応の新宗教が出てきたと考えるべきです。信仰というものは、太古の世界からありました。キリスト教も2000年前からあります。その信者の中には創造的な働きをした者も多くいました。地動説を唱えたコペルニクスは、キリスト教の司祭でもありました。ガリレオも地動説を唱えたことはよく知られています。(当時の教会指導者がアリストテレスの学問の影響を受け、それを裏付けるために、聖書の中の詩篇19篇を持ち出したと言われます。教会指導者が天動説の証拠としている「太陽は部屋から出て来る花婿のようだ」という詩篇19篇の言葉は、聖書の解釈のしかたで解決できるとガリレオは主張しました。つまり、それは詩篇なので詩的な表現をしているだけで、天動説を主張しているとは必ずしも言えないということです。ガリレオの主張は当たり前の主張ですが、教会という組織も誤ることもありました)

フランスの科学者・哲学者のパスカルも、イギリスの科学者ニュートンやファラデーも敬虔なクリスチャンでした。少なくとも言えることは、神を信じる行為は、創造することや応用することをあきらめることではありません。

 聖書は旧約聖書と新約聖書からできています。起源前1500年ぐらいに生きたモーセのことが旧約聖書に記されています。モーセは、神の声を聞き、人々が守るべき多くの命令を受けました。その中で、神の命令はすべてこの中にまとめられるという命令があります。それは、二つの要素からできていて、一つ目は、「心を尽くして神を愛すること」、二つ目は、「自分と同じように隣人を愛すること」です。イエス・キリストも、「このふたつより大事な命令は他にありません」と語りました。

 聖書には、確かに人間が守るべきいろいろな命令が書かれていますが、人が行うべきことは二つに集約され、そのために人は応用力を働かせるのです。神を愛するとは、神の栄光を表すことです。神の栄光を表すことは、私たちに命を与えて生きる使命と期待を持っていてくださる神を賛美し、感謝し、神の命令を守り、敬虔に日々をおくることです。自分と同じように隣人を愛するとは、自分を愛し、それと同じように隣人を愛することです。隣人とは、近所の人という意味ではなく、どこででも自分の近くにいる人はみんな隣人です。また、隣の国であっても、少し離れた国であっても、その国民は隣人ということになります。なにも、自分以上に隣人を愛せよとは書いてありません。人は正しく自分を愛し、それと同じように隣人を愛するべきだと聖書には書かれています。

 応用とは、基礎となるものがあって初めて成り立つものです。細かい指示でがんじがらめにされることも応用力を奪いますが、基礎となる言葉がなければ応用も成り立ちません。多くの偉人と言われる人たちも、何かの信念や信条を応用させた人たちです。現代は、受験の影響も大きいのかもしれませんが、多くの言葉を頭に一時的に詰め込まなければならないせいで、基礎となる言葉を持たなくなっている傾向にあるような気がします。その反動として、空っぽの心の中にカルトの教えが入って、その人をまったく別人にすることもあるのです。

 あなたは基礎となる言葉を捜しておられるかもしれません。ぜひ、教会においでくださって、聖書を学んでいただきたいと願っています。聖書の言葉を都合よく使う団体もありますから注意してください。大泉聖書教会では、あなたのおいでをお待ちしています。(大泉聖書教会牧師 池田尚広)