《チャップリンの話》

チャールズ・チャップリンは、イギリスが産んだ偉大な喜劇役者です。

映画評論家の淀川長治さんは、チャップリンについて次のようにご自身の著書に書いています。「チャップリンは幼少時代ひどい苦労をなめた。貧しさのあまり頭が変になった母とチャップリンは二人暮らしになった。父を五歳で失ったときに母は発狂した。腹ちがいの九歳の兄はこの家から逃れて船のボーイになった。五歳のチャップリンは食べるものもなくなってマーケット裏に捨てられた残パンを拾ったこともあったという。その苦労がのちのチャップリン喜劇の中でいかに生きて描かれているかがわかるのである。それにこの母が実はえらかったのである。気が静まって正気を戻すと、小さな我が子を枕辺に呼び、『イエス様はお前が運命をまっとうすることをお望みなのだよ』と何度もさとした。つまり、自殺をするなということである。それは、小さな我が子にいうよりも苦しい自分にいってきかせたのであろう。思えば神様は人間をゆたかに幸せにするためにいつも苦労をさせるのだ。」
(淀川長治著「愉快な心になる本」より)

 チャップリンの母は、「運命」という言葉を「与えられた命」という意味で使っているようです。私たちの命は神から授かったものなので、神が定めた時までしっかりと生きるように母は息子を諭しました。屈辱も恥も偏見も受け入れて生き続けることを母は息子に語ったのでした。

命は単に自分のものだと思えば、生き続ける理由を見いだせない時に、人は自分の命を断つ可能性があります。また、単に命は両親から授かったものという考えだけなら、両親との関係が壊れた時に、生き続ける理由を見いだせない時もあるかもしれません。

 私たちの国は基本的人権の概念を西欧から学び、それが日本国憲法の中に生かされています。その西欧文化の根底にあるものがキリスト教です。

その人が社会に役立っているか、何かを生み出しているかで、私たちは自分や周りの人を見ることがあります。物事が順調にいっている時はいいですが、順調にいかない時やお荷物状態にしか思えない時など、人は生き続ける理由を失うことがあります。

ところで、最近は反社会的信仰を持った者が破壊活動をしていることがニュースで紹介されることがあります。日本の多くの方々は、宗教というものを一括り(ひとくくり)で考える傾向がありますから、すべての宗教や信仰に対して警戒感を抱く世の中になったような気がします。

イエス・キリストは、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」と聖書の中で語りました。カイザルとは、当時の中近東も支配していたローマ皇帝の称号です。「カイザルのものはカイザルに」とは、その社会システムを受け入れなさいという意味です(たとえば、税金を払うことを要求されたら払うような行為)。そして、その行為をすることによって神に仕えることが疎か(おろそか)にされるようなことはないということを示しました。

また、「神のものは神に」という言葉ですが、命は神から授かっているという理解をすることも、その内容の一部です。すべての人は、神からその両親を通し、命や能力や性格を授かっています。そのように理解することは、決して重荷ではありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(新約聖書マタイ福音書11:28)というキリストの有名な言葉があります。そのあとで、「〜わたしの荷は軽いからです。」と語られています。重荷のない人生などありません。すべての生き方には必ず付随した重荷があるものです。キリストの荷が軽い理由は、教えに合理性と真理があるからです。

ぜひ、私どもの教会においでください。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。

(大泉聖書教会 牧師池田尚広)