《信じる体験》

この世の中には不思議なことが多くあるものです。偶然という意味でも予想を超えたことが起こることがありますし、体験ということでも私たちは稀に、今まで味わったことがないような不思議な体験をすることもあります。キリスト教会に来ている人がみんな劇的な宗教的体験をしているわけではありませんが、なかには深い宗教的体験をした人もおられます。

以前、仏教の僧侶だった松岡広和さんという牧師がおられます。松岡さんは祈りの中で不思議な体験をしました。(以下、松岡氏の文章より)

「私は1962年、寺の住職の息子として生まれました。高校生の頃から『なぜ私は生まれてきたのか。なぜ生きなければならないのか』といった疑問が、絶えず私の心を支配するようになりました。生きている目的を見出そうと私は自ら望んで僧侶の道に入ったのです。大学では仏教を研究しました。

いつかきっと真理に目覚める時が来るだろうという期待を持ち、山に行ってさまざまな修行もしました。そのような私が人生の問題の解決を得たのは、仏教ではなく聖書によってでした。私にとってまったく縁のないものと考えていたイエス・キリストとの出会いが人生を変えました。

私は1988年に韓国仏教を研究するため、韓国のソウルに留学しました。そしてソウルにあるキリスト教会にも足を運びました。それはクリスマスの時で、はじめは友達に誘われただけでした。しかし、僧侶としての宗教的教養として、聖書も学ぶ必要があるのではないかと考え、その教会で聖書の勉強をはじめました。

 すると読めば読むほど、聖書の言葉が私の心に響いてきました。人はみな罪を持っており、その罪のために身代わりとなってイエス・キリストは十字架にかかったという教えはたいへん興味深いものでした。しかし、本当の意味を理解することはできませんでした。そしてある日、ひとつ試してみようという気持ちで、「私は罪人(つみびと)です。どうぞ、お赦しください」と、神に向かって祈りました。すると突然、涙が溢れてきました。これには自分でも驚きました。私は泣きながら続けて「神さま、赦してください。私の罪を赦してください」と祈りました。その時、驚くべき変化が私に訪れました。それまで心を支配していた「生きるのはむなしい。意味がない」という暗い思いがまったく消えてしまい、今までに経験したことのない大きな喜びに包まれたのです。

また、「神さまはいらっしゃる」という力強い確信が心に刻まれました。「イエス様こそ、真理だ。私の人生はこのイエス様のものだ、イエス様が人生を導いていらっしゃる」という喜びで心が一杯になりました。それまで学び求め続けていた仏教からは多くの知識を得ました。しかし、それらは頭だけのもので、まったく私の生きる力とはなっていませんでした。仏を礼拝しても極楽浄土に思いを馳せようとしても、それらを信じられない自分に気づくだけでした。

ところが、イエス・キリストが、私の罪のために十字架にかかったことを信じ、心を神に向けた時、人生を新たにする救いの手が差し伸べられたのです。それは頭だけの知識でもなく思い込みでもなく、確かな体験でした。そして同時に「私は天国に行ける」という確信も与えられました。私の人生は目的のない、どこに行くのかわからないものではなく、「神の国である天国に確実に向かっているという揺るぐことのない信仰が神から与えられたのです。」(配布用チラシ「もと僧侶いま牧師」―仏教からキリスト教へ変えられた人生―より)

教会では、あなたのおいでをお待ちしています。(大泉聖書教会牧師 池田尚広)