《喪失体験》

生きていけば楽しいことも辛いこともありますが、辛いことの中で喪失体験というものがあります。喪失体験の中で、病気は健康の喪失であり、失業は職業の喪失であり、離婚は配偶者の喪失ということになります。

アメリカには人間が受けるストレスの大小を評価するスケール評価というものがあるそうで、それは配偶者の死を100として、他のさまざまな数値を出しているものです。つまり、配偶者の死がいちばん高い数字である100を当てはめているということは、配偶者の死がいちばん大きなストレスであるということです。

平安女子大学教授の工藤信夫さんは、次のように述べています。「それほどに〔配偶者の死〕という出来事は大きな精神的な負担になるものなのです。その一例としてよく知られている現象の一つが〔後追い〕という現象でしょう」(「人生の秋を生きる」いのちのことば社P.80

私たち日本人は、「努力」という言葉や「忍耐」という言葉が好きな人が多くいます。仕事や学業やスポーツなど、何をするにも努力と忍耐は必要です。また、キリスト教の経典である聖書も、努力や忍耐の必要性について説いています。

よく、信仰を持つことを勧めますと、「自分を弱いと思いたくないので、けっこうです」という人がいます。この返事から理解できることは、多くの日本人が、何かの信仰を持つことは自分で努力をすることを諦めた人間がすることだと思っているということではないでしょうか。聖書は、努力や忍耐をしながらがんばることを勧めていますから、神を信じることは決して努力をすることを諦めた人間がすることではありません。

心の拠り所を持つことと、日々努力することは別々のことです。心の拠り所のようなものを持った人は努力することを諦めたような者だという理解は正しくありません。どんなに努力して成功している人でも、配偶者や、家族や、友人などが支えとなっているはずです。だからこそ、社会でどんなに成功している人でも、配偶者がいなくなれば喪失体験をすることになるのです。日々の鍛錬や努力によって、配偶者や家族に代わるものを自分の中で作ることは不可能です。

神を信じるとは、ある意味で、永遠の配偶者を得るような行為です。結婚をした人が、努力することをやめた人でないように、神を信じることは努力をすることを諦めることではありません。

配偶者の死で、男性のほうが影響を受けるとよく言われます。社会で成功をし、偉そうなことを言っていても、奥さんが心の支えである場合が多いということでもあります。神を信じることは決して弱い人間がすることではありません。それは、配偶者を得るように自然な行為です。

ぜひ、教会においでくださって、あなたを存在させた神について知っていただきたく願っています。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。

(大泉聖書教会牧師 池田尚広)