荒城の月

ご年配の方々にとって、「荒城の月」は馴染み深い歌だと思います。作詞者の土井晩翠が題材とした城はどの城だったのか、論議があるところだと思いますが、ヒントの一つは土井晩翠の故郷です。

土井晩翠は1871年(明治4年)仙台で生まれました。父親から会津の鶴ヶ城の落城の悲話を小さい頃から聞かされたそうです。一昨年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」でも、悲惨な落城の様子は描かれていました。現在、会津若松に建っている鶴ヶ城は、観光のために近年に作られたものですから、土井晩翠の時代には、その場所は荒れ果てた状態だったと想像されます。

ところで、「荒城の月」は、東京音楽学校(現東京芸術大学)が中学校唱歌の題として指定したテーマで、それに土井晩翠が応えて作詞したものでした。集中砲火を浴びて蜂の巣状態にされたすえに明け渡された鶴ヶ城を思いながら作詞したと思われます。

作詞者の土井晩翠は、テーマを与えられてから鶴ヶ城を思った理由を次のように語っています。「まず第一に思い出したのは会津若松の鶴ヶ城であった。という理由は、・・・学生時代ここに遊び多大な印象を受けたからである」(※1)

 ところで、「荒城の月」が歌い継がれる理由の一つは、3番と4番の歌詞の魅力によっているのではないでしょうか。単に、形あるものがいつかは滅びるという無常観だけではそれほど多くの人を引きつけることはなかったと思います。

 4番の「天上影は変わらねど」とは、人の世には栄枯盛衰はあるけれども、天の姿は変わらないということを語っています。また、3番の「かわらぬ光 誰がためぞ」とは、永遠に変わらない光が天にあるというように解釈できます。音楽評論家の大塚野百合氏は、4番の「天」の理解には、クリスチャンであった妻と娘の影響がうかがえると語っています。(※2)   

確かに、「かわらぬ光誰がためぞ」との問いは、自然の光を単に想定しただけでは出て来ないことばかもしれません。

また、晩翠の娘の照子は26歳という若さで結核で亡くなりましたが、天に召される時の枕辺は天国への希望に満ちた素晴らしいものだったと言われます。その時、照子は周りの人たちに次のように語ったそうです。「みなさん。私のために泣かないでください。私はこれから一足先にイエス様のみもとに行くのですから、泣く方は、廊下の外に出て行って泣いてください」(※3)

照子は7年間病床にあったそうですから、19歳の時から結核になっていたということになります。そのような若い時から病に侵された娘を、晩翠はかわいそうに思ったでしょうが、それとともに、娘の中にある確かなものも見ていたのではないでしょうか。

(※1)「牧師夫人新島八重」(雑賀信行著・雑賀編集工房)より
(※2)(※3)「歌人たちの遺産」(池田勇人著・文芸社)より

私たちに希望を与えるものは、変わることがない確かなものであるはずです。ただ、人間というものは、限界状態にならなければ、そのようなものは求めないものです。あるいは、自分自身を強くしたいという思いが、何かに頼ることを遠ざけることがあります。

しかし、限界状態というわけではなくても、普段の日常生活の中でも確かなものを期待すべき時があります。たとえば、正しい行為がなかなか認めてもらえない時や、経営判断などで今すぐに大きな決断をしなければならない時や、誘惑に負けそうな時など、私たちは確かなものを必要としているのではないでしょうか。

あなたを存在させて、あなたを生かしておられる「確かな存在」(神)について、教会は語っています。ぜひ、教会においでください。おいでをお待ちしています。

(大泉聖書教会牧師 池田尚広)