努力と信仰》

 歴史上、名を残している人物やその関係者の中で、クリスチャンであった人たちは多くいます。その人たちがあまり立派過ぎると参考にならないこともありますが、次の人たちの話は多くの人を勇気づけることになると思います。

「彼の生まれは棺桶の中(棺桶を寝床にしたということだろう)。お母さんは他人の汚い物を洗って生計を立てていた。おばあさんは庭掃除をしてお金をもらい、おじいさんは精神病院に入っていた。本当に貧しい貧しい家の生まれ、貧しい貧しい生活の中で彼は育ったのだ。彼は大人になって恋をした。しかし恋をした相手にことごとくふられ、失恋ばっかり。ついに彼は生涯独身であった。彼は70歳まで生きて国葬された。彼は死ぬ時言ったことばはこうである。『私の人生は童話のように幸せでした。』 この彼とはアンデルセンである。アンデルセンはなぜこんなひどい環境であったにもかかわらず、『幸せでした』と言えたのだろうか。
それはただこの一点である。彼はイエス・キリストを信じていたからである。

 彼のお父さんは梅毒、彼のお母さんは結核、彼のまえに生まれた四人のうち、一人は盲人、一人は死産、一人はろうあ者、一人は結核。そして彼が母の胎に生命を宿した時、彼の両親は考えた。『中絶か、出産か。三人の子どもたちは肉体的なハンディがある。次の子もそうならどうしよう』 しかし彼らには信仰があった。彼はそうして生まれてきた。生まれてきた彼は病弱な体だった。腸の炎症、慢性肝炎、黄だん、後の日には大切な耳がまったく聞こえなくなった。この彼とはあのベートーベンである。

 彼女のお父さんは酒乱であった。そのためにお母さんは他の男性と逃げてしまった。彼女と弟は置き去りにされた。養ってくれる両親のいない二人は施設に送られた。その孤児院での生活で、愛していた弟は栄養不足のために死んだ。唯一の支えであった弟を失ったこの少女は、たった一人になってしまった。どんなに悲しく辛かったことだろうか。彼女もそのうちに栄養不足のために目をわずらってしまった。でもこの子は倒れてしまわなかった。イエス・キリストを信じていたからである。
この少女こそ、あのヘレン・ケラーの先生となったサリヴァンである。

以上〔「この小さき者たちとともに」内越言平著(いのちのことば社)
P.9798より抜粋〕


福沢諭吉は、「天は自ら助くる者を助く」と言いました。それは、自分で努力してがんばっている者を神は助けてくれるという意味です。そして私たちの社会には、そのように考えている人が多くいるように思います。また、キリスト教会が教えている信仰も、それに似たようなものだろうと思っている人も多くいるように思います。

しかし、ここで紹介させていただいた人たちは、自分が正しく生きているので神は助けてくれると思っていたわけではありません。アンデルセンは女性との付き合いにおいては、いわば失敗者でした。また、ベートーベンの父親は梅毒だったということですから、ある意味では神にお願いする権利もない人と思われるかもしれません。

 この人たちの信仰の内容が、もし「天は自ら助くる者を助く」という信仰であったなら、彼らは神に助けを求める資格は自分にはないと思ったことでしょう。
 この人たちの信仰の内容はどんなものだったのでしょうか。その信仰内容は、自分のダメさや悲惨な状況にもかかわらず、神は親のような憐れみ深い存在であると信じていました。聖書をよく読んでいけば、神は良い親のような存在であると多くの箇所で紹介されています。良い親は子どもを大切に思っているものです。神が人間に求めることは正しい態度以前に、神が存在することと、その神が良い方であると信じることです。アンデルセンも、ベートーベンの両親も、サリヴァンもそのように信じていたはずです。

 なぜ、厳しい生活の中で、そう信じることができたのでしょうか。生活が苦しければ、人は神の存在や神の性質について疑いを持つ可能性があります。しかし、この人たちは、自分の生活をもっと広い視点で見ていたのだと思います。たとえば、「欠乏や孤独が本当に悪なのか」、「今日生きることができたことは当たり前のことではないかもしれない」、このように広い考えがあったので、自分の状況を見て、神の存在や神の性質に対して疑いを抱くことがなかったのだと思います。

それともうひとつの要因として次のことがあります。神は救い主であるキリストを、私たちの汚れや罪を贖うために遣わして犠牲とすることまでしてくださったお方なので、子どもが親に期待するように、自分の状況に関わらず神を信じて、日々の導きと守りを期待できたのです。

ぜひ、教会においでくださり、神様のご性質と愛について知っていただきたいと願っています。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。(大泉聖書教会 牧師池田尚広)