《「宗教」ということば》

インドネシアは、東洋世界の中では珍しく国民の大半がイスラム教徒の国です。15年ぐらい前にキリスト教の宣教師は入国できなくなりましたが、それまでは日本のキリスト教会から宣教師がインドネシアに派遣されていた時もありました。ある日本人の宣教師が言っていたことですが、現地の人にまず語るときには、宗教の効用について語り合うのだそうです。「宗教というものはいいですよね」ということばに対して、「本当ですよね」という感じでことばが返ってきて、しばらくのあいだ、宗教についての話で時間を費やすことができるのだそうです。このようなことを日本の人に話しますと、インドネシアが珍しい社会のように思われる人も多いと思いますが、むしろ、日本人が世界の中では珍しく無宗教であることに誇りを持っている国民です。ですから、世界的にみれば積極的な宗教談義は決して珍しいことではないと思います。

宗教という日本語の意味は、広辞苑によりますと、「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なるものに関する信仰・行事」であるということです。英語では、宗教のことをReligion(リリジョン)といいます。

この英語はラテン語のReligioからきているそうで、Reは「再び」という意味があり、ligioの部分は「結ぶ」ということばと関係があります。このことばがキリスト教から来ているかどうはわかりませんが、再び神と人が結ばれるということは聖書が語っている救いそのものです。

この世にはいろいろな宗教があり、それぞれに特徴的な教えがあると思います。信じても信じなくてもよいが、信じたらさらにステップアップした人生をおくれるというような教えを持っている宗教もあるでしょうし、宗教とは霊の世界と交信することであり、正しい交信をすれば、幸せになれるというような教えを持っている宗教もあります。

キリスト教の経典は聖書ですが、聖書は神とあなたはすでに関係があるということからスタートします。あなたは、あなたの両親から生まれたわけですが、あなたが日本という国で生まれ、あなたがこの時代に生まれることは、あなたが選んだわけではありません。あなたが男か女かに生まれ、あなたがあなたのような個性を持つ者として生まれたことは、あなたが選んだことではありません。

聖書の中で、次のようなことばがあります。

「あなたが私の母の内臓を作り、母の胎内のうちで私を組み立てられたからです。」(詩篇139:13

一人ひとりがこの世に生を受けることの中に、神の意思があると聖書は語っています。それは、あなたがこの時代に日本人として生まれたことは、神があなたに与えたことであるという意味です。神を信じるということは、神と自分との関係がすでにあったと認めるということです。

一人ひとりがこの世に生を受けることの中での神の意思ということの他に、人間の魂が神によって造られているという点からも、すでに人間と神とは関係があります。たとえば、多くの動物が存在するなかで、祈るという行為は人間しか行いません。永遠を思い、死に対して深い恐れを持つということも人間だけが持つ感情です。フランスの科学者・哲学者だったパスカルは、「人の心には、神以外には満たすことのできない空洞がある」と言いました。神以外に満たすことのできない場所を魂と表現することができると思いますが、空洞となっている魂に神を迎えることを、神を信じると言います。

表ページで、英語の宗教という意味のことばは、再び結ばれるという意味である書きました。すでに関係がある神と再び結び合わされることが、キリスト教の救いです。キリスト教が語っている救いとは、神と自分はすでに関係があったと認め、神が定めた方法によって神との関係を持つことを言います。神が定めた方法とは、神がこの世に送った救い主イエス・キリストの贖いが必要であると認めて、それを自分の口で告白することです。そうすれば、その人は救われるというのが聖書のメッセージであり、キリスト教の中心的メッセージです。

あなたは立派に歩んでおられるかもしれませんし、成功しておられるかもしれません。だから神を必要としませんというようなことではなく、別の次元で誰でも神を求めているものです。神も、あなたのことをよくご存知で、あなたが神の目的に従って幸いな日をおくることを願っています。聖書には罪ということばが出てきますが、罪とは自分と神は関係がないとする態度や、神を否定することをいいます。あなたは、ご自分の神観を持っておられるかもしれません。でもぜひ、あなたとすでに関係を持っている神のことを知っていただきたいと思います。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。

 (大泉聖書教会牧師 池田尚広)