《自分を愛する》

キリスト教といえば、自己犠牲の精神を語っていると思われることがありますが、決してそれだけを語っているわけではありません。聖書の中には、「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」という言葉もあります。国際基督教大学元教授の大塚久雄氏は、この言葉の説明として次のように語っています。

蛇のように賢いとは、頭がきれて、物事の真相を的確につかむことができるような意味で、鳩のように素直とは物事の裏を考えたりせずに受け取る素直さ、無邪気さ、汚れのなさの意味で使われている。新約聖書マタイの福音書10章の「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」とは、これらの良い意味で使われている。ただし他の意味として、「蛇のように」とは、「底意がある」とか「心の中に悪巧みを隠している」という意味もあり、「鳩のように」とは、馬鹿正直という言葉もあるように「愚か」という意味もある。そのような裏の面もある中で、そのような方向には進まないで、良い意味のほうで生きることを聖書は語っている。(「意味喪失時代に生きる」日本基督教団出版局、大塚久雄著p.215220より内容要約)

聖書の中には「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という言葉もあります。この言葉も、ある意味ではバランス感覚を要求する言葉です。聖書は「隣人を自分以上に愛せよ」とは語っていません。私たちは自分を大切にしなければなりません。それから、「隣人を愛する」とは、いつも自分を犠牲にして生きるということでもありません。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という言葉は、「愛する」という言葉を正確に理解するなら、片方が大きくなると片方が小さくなるという種類のものではありません。自分を本当に大事にできる人は、他の人をも大事にできるものです。そういう意味では、自分を本当の意味で大事にしているかどうかがポイントとなります。

聖書は、「自分を愛すること」を当然のように語っています。私たちが自分を大切にできる理由として、どのようなものが考えられるでしょうか。家族が自分を大事に思ってくれるとか、自分がいないと誰かが困るとか、そのようなことを、自分を愛する根拠に置いている人が多いのではないでしょうか。

ところで、私たち人間はやがて一人になる可能性が高いものです。死ぬまで現役で、社会の中で活躍できる人はそれほど多くはありません。ひとりになっても、体が不自由になって、他人の世話にならなければ生きていけなくなっても、私たちが生きるべき根拠は何でしょうか。それは、神が自分を生かしたという事実です。あなたは、あなただけのものではありません。あなたを生かした存在がおられます。その存在を信じることが、神を信じるということです。

人が神を信じることと、人と人とが存在を認め合うこと(隣人を愛すること)を神は願っておられます。もちろん、隣人を愛するとは、その人のどんな行動も許すということではありません。悪い行動は正されなければなりません。そして、それがその人にとっても良いことです。そのようなこととは別に、自分が生きる根拠を持っているように、その人も生きる根拠を持っていると理解することは、隣人を愛する根本的な理由となります。

あなたを生かしたお方(神)を信じて生きていただきたいと願っています。茶話会や、クリスマスなどは教会に来やすい時だと思いますから、ぜひ教会においでください。おいでをお待ちしています。                

(大泉聖書教会牧師 池田尚広)