《自尊心の持ち方について》

私たちはみんな、自尊心をもって生きています。自尊心を捨ててしまったら、生きていく力は生まれてきません。

神を信じるということは、自尊心を捨てることだと思っている人がいます。特に、私たち日本人の中にそのようなタイプの人が多くいるような気がします。肉体的にも精神的にも悲惨な状態にある人でも、神に頼るようになってしまったら、自分を捨ててしまうことになると思っている人がいます。

日本は多神教社会だと言われます。自ら八百万(やおよろず)の神がいる国だと言っています。しかし、その神々は、人間が心底信頼する神々ではなく、あくまでも自分が上に立って、神々を利用する立場であるという姿勢を崩したくないというような思いがあるのではないでしょうか。だから、心から神を信じるようなことがあったら、自分を捨ててしまうことになると、ある人々は考えるのだと思います。

外国でしばらく生活して、クリスチャンになってくる人が少なからずいます。その人たちは、いわゆる普通の人が日曜日になると教会に行く姿を新鮮に感じるようです。特に、社会的に阻害されている人たちというわけでもなく、貧困だというわけでもなく、普通の人が教会に行っています。

神を信じるということが、自尊心を捨てるということでもなく、普通に行えることなんだと新鮮に受け取れたことが、その人たちがクリスチャンになった一つの要因のように思います。

人は皆、辛い時には辛いし、痛い時には痛いものです。そのことを神に申し上げることは、決して恥ではありません。自分が木を掘って作った神々に対して、そのようなことを言うことは恥かもしれませんが、人間以上の神に対して、心の中の思いを素直に表現するのは恥ではありません。

聖書の中に、「どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」ということばがあります。心の中の思いを神の前に注ぎ出すことが勧められています。辛いとか、痛いとか、悔しいとか、そのような思いを注ぎ出せと語られています。

心理学的にも、そのようにすることは精神的に良いようです。痛いのに、心の中で「痛くないんだ」と思い込もうとする処理を行うことは、一時的な効果はあるかもしれませんが、本当の回復はもたらしません。もちろん、痛いということだけに集中し過ぎて、別のことに向かっていく姿勢を忘れてはいけませんが、現状を曲げて解釈する必要はありません。

 以上のように、神を信じる行為は決して自尊心を捨てる行為ではありません。人間社会の中でも、はるかに高い地位を持つ者の前でへりくだることは、決して自分を捨てていることではありません。むしろ、礼儀正しい日本人は積極的に地位の秩序を守っているのではないでしょうか。神が全知全能の神であるなら、へりくだる行為は当たり前の行為です。そして、自尊心はなんの影響も受けていません。

 むしろ神を認める行為は、人間が健全な自尊心を持つ原動力でもあります。自分は自分としてユニークに造られているという発想は、高い地位にある神の存在なくして出て来ません。神々が人間と同じか、人間以下の立場でしかないような神観の中からは、個人個人のユニークさを認める発想は出て来ません。

また、私たちはみんな、自分のユニークさに健全な自信を持ちたいと思っているのではないでしょうか。スマップが歌った『世界で一つだけの花』の歌詞でも、「オンリーワン」ということばが使われています。「すでに私たち一人ひとりがオンリーワンである」という内容の歌詞には多くの方々が共感されたと思います。

ただ、オンリーワンということは、自分がそのように思っているというだけでは効果が薄いものです。親は子どもが何人いても、子どもの成績の良し悪しや、健康状態の良し悪しに関わらず、一人ひとりの子どものユニークさを認めて愛しているものです。それで、子どもの側でも自分は親の元でオンリーワンだと思うことができるのです。聖書は、多くの箇所で、神が親のような存在であることを語っています。神という魂の親の元で初めて、人は自分のユニークさを受け入れることができるのです。もし、神が存在するのでなければ、ユニークさが自分を憎む原因ともなりかねません。

他人が自分をどのように思っているかが気になってしかたなかった人が、神を信じて、あまり気にならなくなったということが多くあります。ぜひ、教会においでください。そして、人がどう思うかという基準で生きるのではなく、神のことばである聖書の基準に目を留めていただきたいと願っています。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。学びに関することや集会のことなど、おわかりにならないことが多くあるかもしれませんが、いつでもお問い合わせください。

       (大泉聖書教会牧師 池田尚広)