《日本史の中の偉人・勝海舟》

勝海舟(かつかいしゅう)という名前は、ほとんどの人が聞いたことがあると思います。

江戸時代が終わり、明治時代になったばかりの時、新政府の中枢は薩摩藩、長州藩、土佐藩といった勝ち組の人材が占めていました。勝海舟は、旧幕臣であって負け組でした。しかし、新政府は勝海舟の卓越した意見を必要としていたので、顧問役のような立場にあったことが『氷川清話』という海舟の回顧録の中から見ることができます。

勝海舟とキリスト教との出会いは、江戸時代の長崎海軍伝習所時代でした。当時は、キリスト教禁教令があった時代でしたが、オランダ人教師のカッテンディーケに信仰的な影響を受けたと言われています。また、1860年2月に渡米した際には、サンフランシスコのクリスチャン家庭に世話になり、その時は毎週日曜日にはキリスト教会の礼拝に出席しています。

明治時代になり、政治の第一線から退いたあとは、顧問のように明治政府に提言をし、また、あらゆる階層の相談事にも丁寧に対応したそうです。また、旧幕府軍の武士たちの再就職のために、静岡でお茶を栽培させたことは有名な話です。

 「海舟は、旧幕臣たちが没落武士になって路頭に迷うのを見過ごしできませんでした。荒れ地だった静岡の牧ノ原の開墾事業は、海舟が明治政府に懇願して実現した救済策でもありました。数千人にも及ぶ旧幕臣たちは、静岡で第二の人生を歩み始めたのです。」(守部喜雅著「勝海舟最後の告白」フォレストブックスより)

また、思想的に勝海舟は徹底的に平和主義であったことがわかります。朝鮮出兵や日清戦争に断固反対の立場を明らかにしています。

「日清戦争におれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないヂゃないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那中国はやはりスフインクス(スフィンクスのことだと思われる)として外国の奴らがわからぬに限る。支那の実力が分かったら最後、欧米がドシドシ押し掛けて来る。つまり欧米人がわからないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。一体支那五億の民衆は日本にとって最大の顧客サ。また、支那は昔時から日本の師ではないか。それで、東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。おれなどは維新前から日清朝鮮の海軍は日本で引き受くる事を計画したものサ。今日になって兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところとなるくらいのものサ。」(「氷川清話」より)

勝海舟は、日本が隣の国を支配するという考え自体を持っていませんでした。氷川清話でも語っているように、日本が中国と朝鮮の海軍を創設するために協力をするという壮大な計画を語っていますし、隣国の人たちを兄弟と言っています。

ところで、勝海舟とキリスト教との関係ですが、海舟は息子(梅太郎)の嫁にアメリカ人女性(クララ)を迎えました。静岡の学問所に英語教師として赴任したエドワード・クラークという人が、勝海舟の伝記を書いていますが、クララから聞いた次のような言葉を載せています。「勝氏がなくなる二週間ほど前だったと思います。兄のウィリスは勝氏の口から直接、『私はキリストを信じる』と、はっきりと聞いたと言います。それを知って、私の心は歓喜に満たされました。勝氏は神の国に近づいたのです。」〔「勝安房・日本のビスマルク」(英文)エドワード・クラーク〕より

クララの兄ウィリスは日本で医師をしていて、海舟はウィリスに深い信頼を寄せていたそうです。勝海舟はキリスト教の入信の儀式である洗礼式こそ受けていませんでしたが、心はキリスト信者だったのです。キリスト教禁教令が江戸時代や、明治時代初期にもあったので、キリスト教信仰を公にはできなかったと思いますが、心の中では聖書が示している全知全能の神を信じ、救い主(すくいぬし)イエス・キリストを信じていたと思われます。

さて、現在ではキリスト教を名乗るさまざまな教えも出てきています。細かい説明をしてもわかりにくいので、伝統的なキリスト教会に行けば間違いないと思います。私どもの団体は19世紀後半に北欧出身のアメリカ人宣教師たちが東洋宣教のために組織したスカンジナビアン・アライアンス・ミッションが宣教してできた団体です。

ぜひ、教会においでください。そして、少しづつでも聖書が語っていることを知っていただければ嬉しく思います。

〔大泉聖書教会 牧師池田尚広〕