《ウィンストン・チャーチル》

ウィンストン・チャーチルはイギリスの有名な首相で、ナチスとの戦いにおいて国民に勇気と希望を語り続けたことで有名です。

チャーチルは多くの名言を残しました。たとえば、次のような言葉があります。「勇気がなければ他のすべての資質は意味をなさない。」「成功とは、意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである。」

チャーチルの言葉の中に、聖書についての言葉もあります。「私は、確信をもって、聖書という揺るぎない岩の上に憩う(いこう)。」

第二次世界大戦当時、チャーチルにとっての敵はナチスだけではありませんでした。国内にもチャーチルに対して批判的な勢力がありました。そのように内と外から絶えず圧迫されているような状況の中で、チャーチルは聖書の言葉に安息を見出していたようです。ただ、聖書のどの言葉がチャーチルに平安を与えたかは定かではありませんが、次のような言葉ではないでしょうか。

あなたの重荷を主(神)にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(旧約聖書・詩篇55:22)

 この詩篇には、「正しい者」という言葉があります。誰が正しくて、誰が間違っているかを判定することは簡単なことではありません。また、自分が正しいという確信は、その人が勝手にそう思っている場合もあります。そのようなことを考慮しても、チャーチルが自分は正しい者の側にいると判断できたとすれば、明らかに敵が侵略行為を行っているという思いがあったからではないでしょうか。

決して一人よがりの確信ではなく、「神が、やがて正しい裁きをしてくださる。神は正しい者を守ってくださる」という強い思いがチャーチルの心にはあったと思われます。

人によって、「正義」の理解は違います。チャーチルもそうだったと思いますが正義の神が最終的にこの世界を支配しているという理解を持っている人や、宇宙の真理の中に正義の法則というものがあると考える人もいます。

日本人の中で、わりと多くの方が後者の考えを持っているのではないでしょうか。日本の新興宗教の中にも、その延長線上に作られているようなものもあります。たとえば、宇宙の生命と通じることによって、願い事を叶えることができるという教義を持っている宗教があるそうです。

日本は多神教社会と言われます。神々は、人が心底信じるものではなく、利用するものであるという考えが多神教社会の根底にあります。その意味では、心底信じるに足る神は存在しないということになります。つまり、すべてを最終的に支配するような神は存在しないという考えが根底にあります。だからこそ多くの人たちは、宇宙を貫く真理というような抽象的な概念を、拠り所にしようとするのではないでしょうか。

それもひとつの生き方だと思いますが、抽象的な概念は強力な信念とはなり得ないと思います。チャーチルの最終的な拠り所が、宇宙の正義の法則などというものなら、危機的な状況を乗り越える力とはならなかったはずです。

ところで、この世に正義の神が本当に存在するなら、この世にはなぜ不条理なことがあるのかという人がいます。確かに、不正をする者が多くの利益を得ることがあります。しかし、このような世界でも最終的には正義の神が正しい裁きをしてくださると聖書は伝えています。チャーチルもそのように信じていたのではないでしょうか。(ちなみに、この世が不条理なこともあり得る社会となっているのは、神のせいではなく人間のせいであることも聖書は語っています)

キリスト教とは何かといえば、「キリストの主権」と「聖書の真理」と言えます。キリスト教にはすこし興味があるが、世の中にはいろいろな宗教があるので怖いという人もいます。この二つの基準を正確に語るならそれはキリスト教です。そのような教会にぜひ行ってください。そして、この大泉聖書教会もその二つを正確に語っています。ぜひ、おいでください。お待ちしています。

(大泉聖書教会 牧師池田尚広)