《この世のさまざまの問題と神》

ある日本人の眼科医がドイツに研修に行きました。この人は家族でキリスト教会に通っているクリスチャンで、自分は神を信じる者だとドイツ人の医者に話しました。すると、そのドイツ人医師は「自分は神を信じない。神がいるなら、なぜ世界中に悲惨なことがあるのか」と言ったそうです。ヨーロッパでも、神をまともに信じている人は、それほど多くはありません。

ところで、私たち日本の社会でも、そのドイツ人医師のように考える人が多いのではないでしょうか。この世の中には、戦争があり、虐待があり、さまざまな不条理があります。神が存在するなら、そのようなことがないようにするはずだと考える人がいます。

旧約聖書の創世記によりますと、神が人間にこの世界の管理を任せたことが記されています。管理者は、任されたものを適切に管理する責任が伴うものです。店を任されているマネージャー(管理者)は、お客が来てくれるようにお客のニーズを考え、従業員を訓練し、利益を出せるように働きます。そうすることが、店のオーナー(所有者)に対しての責任であるからです。人間も、この世界の管理者として、主人(神)に対する責任を負っています。

その前提を見失う時、人は自分の管理上の問題を神のせいにすることがあります。戦争も、虐待も、ある特定の人間が起こすことであり、神が引き起こしたことではありません。しかし、ある人は、たとえ人間の問題から引き起こされたことであるにせよ、神が存在するならそれを止めることができるはずだと考えます。神の存在と、神の性質については聖書の多くの箇所で記されていますが、それによると、神はどのようなことも解決することができるお方です。ただ、神が歴史の中に介入するまでに、しばらくの時間を人間に与えているようです。それは、人間が何かを学ぶためなのかもしれません。助け合いを学ぶためなのか、真理を学ぶためなのか、何度も問題が繰り返されないように人間が問題を自覚するためなのか、細かい理由は書かれていませんが、人間には把握し切れない理由があると思われます。

私たち日本人にとって、さらに問題をわかりにくくさせていることは、神を信じると言っている者が問題を引き起こしている場合があることです。広い世界の中では、キリスト教の信者だと告白している者が問題を引き起こしている場合もあります。そのようなことはローマ帝国がキリスト教を国教とした時代からありました。

その社会の大半の人が「自分は神を信じる」と宣言する社会では、全員が敬虔に神を信じている者とは言えない場合があります。それは、自分は仏教ですと言う日本人が、真剣に仏教を信じているわけではないのと似ています。ローマ帝国の時代から、社会の指導者がキリストの名を語りながら、正しくないことを行ったことがありました。

 聖書は旧約聖書と新約聖書からできています。旧約聖書はイエス・キリスト以前の神の約束、新約聖書はイエス・キリスト以後の神の約束について記されています。救世主(イエス・キリスト)が、やがて来るという預言も、旧約聖書の中に神の約束の一つとして記されています。ところで、旧約聖書を簡単に表現すれば、すでに神を信じている者たちの歴史ということができます。彼らの歴史は決して誇れるものではありませんでした。彼らはある時には堕落し、正しくないことを行ったこともありました。神は彼らに対して、忍耐の後に厳しい裁きを行ってきたことが多く記されています。しかし、彼らが悔い改めて、正しい態度に戻ったならば、再び神の憐れみを経験するという歩みをしてきました。

 神を信じると言う者が間違ったことをすることがあったことや、その者たちへの神の裁きも、大昔からあったことです。信じる内容が「悪いことをしなさい」と勧めているならば問題ですが、そうでないのであれば、問題はその人間の問題とすべきです。稀なケースとして、聖書の言葉の文脈を無視して間違って理解し、正しくない行動を取るという場合もあるかもしれませんが、この場合も、神の裁きを免れるわけではありません。

 私たち人間は神に対して、正しく世界を裁いて欲しいという願望と共に、自分に対してはあまり厳しく裁かないで、憐れみ豊かであって欲しいという願いを持つものです。誰でもちょっとの過ちは犯すものです。神は忍耐深く私たちのことを見ておられます。聖書の中に、次のような言葉があります。

「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子(キリスト)を信じる者が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためである」(新約聖書ヨハネ福音書3:16)

 神を信じない者も、神を信じる者も、神の裁きの対象でもありますが、神の憐れみの対象でもあります。神の憐れみは救世主(キリスト)を世に送ることに顕著に現されています。ぜひ教会に来て、神の救いについて学んでいただきたいと願っています。

       (大泉聖書教会 牧師池田尚広)