《広岡浅子とキリスト教信仰》

今、NHKの朝ドラで脚光を浴びている広岡浅子は、事業家として、また日本初の女子大学創立に尽力した人物として有名です。

浅子は60歳を過ぎた頃にキリスト教を信じてクリスチャンになりました。今まで事業家として活躍してきた浅子でしたが、それ以後の人生においては女子教育に深く関係していくこととなりました。

彼女が創立のために尽力した日本女子大学の敷地には成瀬記念館という建物があります。この記念館の名前にもなっている成瀬とは、成瀬仁蔵(なるせじんぞう)という人であり、浅子に決定的な影響を与えた人物の一人です。成瀬は日本で数年間牧師をした後にアメリカに渡り女子教育について学んだ人物です。そして、広岡浅子が創立に関わった当時の日本女子大学校の校長となりました。当時、ミッション(キリスト教の宣教団)が創設した女学校は数多くありましたが、女子の大学として初めて創立されたのは浅子が創立に関わったこの学校です。それは、伊藤博文や渋沢栄一とった当時の政会財界の重鎮と知り合いであった浅子だからこそ、なり遂げることができた成果だったと言うことができると思います。

 浅子が記した『一週一信』という自伝では、浅子の心の遍歴を見ることができます。

その中には次のような言葉があります。「わが身の傲慢なことが解り、今迄の生涯が恥ずかしくも、馬鹿らしくも思われ、改悔の念に堪えなくなりました」

これは大阪教会というキリスト教会に関係し出してから記されたものですが、人間は晩年頑固になる場合が多いように思いますが、浅子は逆に素直になっていったとも言えます。

それでも、聖書の中に多く出てくる「罪」という言葉には、なかなか理解できず反発を覚えたそうですが、軽井沢の別荘での経験が浅子をさらに変えていきました。

 鳥のさえずりだけが聞こえる静寂の地で、浅子は聖書と信仰書だけを読む時を過ごしていました。自伝の『一週一信』に記されていることですが、ある朝「超然として絶対の神」に触れられる経験をして号泣したということです。親と死に別れても、夫と死に別れても泣くことのなかった浅子にとって、自分でも信じられない経験となり、神が存在するのだという確信へと変わりました。

浅子が体を弱くしていた頃、アメリカに行く直前であった孫の松三郎と会うのが最後になるかもしれないと思った浅子は、次の聖書の言葉を彼におくりました。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(新約聖書Tコリント13:13)

71歳で浅子は亡くなりましたが、浅子と親交があった山室軍平という当時のキリスト教指導者の一人は、浅子について次にように述べています。浅子が愛した聖書の言葉はたくさんありましたが、山室が知る最も浅子が愛した句の一つはこれです。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。」(新約聖書Tヨハネ3:2)

決して人に甘えることのなかった浅子が、晩年にして神の素直な「子ども」であったことを知ることができます。(以上「浅子と旅する」(フォレストブックス)参照)

 高い地位にある人は、概して偉そうになる傾向があります。へりくだる明確な対象があるかどうかがポイントとなっているように思います。日本では座禅などの自己修練がありますが、それもためになる訓練でしょうが、へりくだる対象がある行為ではありません。浅子は晩年、「超然として絶対の神」のまえにへりくだりました。そこに、今まで経験したことのない平安を手にしました。その平安は子どもになったような平安でした。
現在の日本では「絶対的な神」というような概念に対して批判的な考えを持つ人が増えているように思います。その神が「愛の神」であることを理解していただき、ぜひ浅子の信じた神について興味をもっていただきたいと願っています。信じるという行為は確かに一大決心ですが、教会では個人の決断を大事にしていますので、決して強要することはありません。おいでをお待ちしています。(大泉聖書教会牧師 池田尚広)