《右の頬を打つ者には左の頬を》

すこしキリスト教について知識のある方なら、キリストが語った「右の頬を打つような者には左の頬も向けなさい」という言葉を聞いたことがあると思います。

この言葉を聞いて、あまりにも現実離れしていると思われる方は多いのではないでしょうか。しかしこの言葉は、現実の世界に通用する確かな理由があります。

たとえば皆さんが、ある会議に出席していたとします。議論が白熱しました。すると、あなたと対立する意見を持つ人がカーッとなって、あなたに近づいてきて、あなたの頬を平手で打ったとします。あなたもカーッとなってしまって取っ組み合いになったなら、二人とも同じくらい悪い人間と評価されてしまい、二人とも厳重注意ということになるでしょう。しかし、あなたがもし、右の頬を打たれたのちに、左の頬もその人に向けることができたら、あなたの評価はきっと高くなることでしょう。

このキリストの言葉は、単に「良い生き方」を示すだけではなく、同じ文脈で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と語られていますので、たとえ意見は違っても、相手に対して一人の人間としての敬意を抱き続けるべきことが示されています。

少なくとも言えることは、見知らぬ人で愉快犯のような人が近づいてきて、あなたの頬を打つような状況は前提となっていません。もし、愉快犯が近づいてきて、あなたの頬を打ったら、抗議するなり逃げるなりすべきです。

よく聖書の言葉は批判の標的になることがありますが、重要な要素は聖書の文脈です。20数年前、エホバの証人の輸血拒否問題が世間をにぎわせた時、新聞の投書で「宗教は利用するもので、信じ切ってはいけない」という意見を述べた人がいました。結局、議論になっている聖書箇所だけではなく、聖書そのものも読んだことのない人たちの論議の場となったことは残念なことでした。

この「右の頬を打つ者には左の頬も向けよ」というキリストの言葉は、アメリカの公民権運動の中で、似たような他の行為となって現れたことがありました。

ある黒人の婦人がバスの座席に座っている時に、一人の白人が乗ってきました。すると、バスの運転手はその婦人に座席を白人に譲れと言いました。その黒人の婦人がなかなか譲ろうとしなかったことが発端となって大きな暴動が起きそうになった時、公民権運動の指導者だったマルチン・ルーサー・キング牧師は、実際に戦って暴力に訴えるのではなく、バスに乗らずに歩くように黒人たちを指導したそうです。この、バスに乗らないで歩くという行為が、「右の頬を打たれたら左の頬を向ける」という態度を具体化した行為とも言えます。結果的に、バス会社は乗客のほとんどが黒人だったので倒産したそうです。

キング牧師は自伝の中で次のように語っています。「真の非暴力抵抗は悪の力への非現実的屈服ではない」「それは、敵対者の中に恥の感覚を呼び起こし、そうすることによって心の変革をもたらすのだ」

相手に恥の感覚を呼び起こすという態度は、ある意味では相手を信用していることが前提となっています。それはキング牧師が特別な人だったから持てた思いではなく、どんな人でも、どんな人種でも、その人の魂は神によって造られているという考えが根底にあるからだと思われます。

しかしながら、敵対している人に対して、一人の人間としての敬意を抱くことは簡単なことではありません。それでもその態度は、あなたの仕事や人間関係に必ず祝福をもたらすはずです。聖書は、いわゆる宗教関係者が持つべき態度について語っているわけではなく、普通の人が持つべき態度について語っています。ぜひ、教会においでくださって、正しい解釈のもとで聖書について知っていただきたく願っています。

教会では、あなたのおいでをお待ちしています。 (大泉聖書教会 牧師池田尚広)