《働かざる者、食うべからず》

聖書のことばで、世の中では普通のことわざのように思われていることばが多くあります。「働かざる者、食うべからず」(1)ということばもそうです。

このことばは、単に勤労の重要性を勧めていることわざのように思われていますが、聖書の文脈を無視すると間違った解釈をすることがあります。

1世紀に存在していたあるキリスト教会の信者の中には、おかしな行動を取る者がいました。世界の終わりが近いと思い込み、どうせ世界がすぐ終わるのなら働いている場合ではないと考えて、友人の家を渡り歩き、結果的に食事をもらっていた者がいたのです。

このことばは、そのような者に語られたことばでした。ですから、何かの理由で働けない者に対しても、このことばが語られているわけではないことがわかります。

また、それと関連してわかることの中に、普段の社会生活から退くように勧めるような宗教があるなら、その宗教の教えは間違っていると、聖書は語っていることがわかります。

ワイドショーでカルト問題の話題が多かった頃、専門家はカルトの傾向として、普段の社会生活から離れさせようとすると語っていました。普段の生活というものを、どのように理解しているかがその教えを判断する一つの判断基準となります。

「職業」という意味を英語で表現する場合、英語ではいつくかのことばがありますが、その中で、CALLING(コーリング)ということばがあります。「呼ぶ」ということばが元になっていますが、「神のお召し」という意味でもあります。つまり、人が神に仕える方法として労働というものがあるというわけです。

 カルト問題以降、現代は宗教全般に対して警戒感が強い時代です。特に、お子さんを持つ親御さんたちは、自分の子どもが宗教的なことに関わることがないように注意しておられるように思います。

しかし、お子さんが大学生になった時でも、子どもを指導できるような親子関係を持っている人はどれどけおられるでしょうか。カルトに入った者たちの多くは、ほとんど大学生以降の年齢になった時に入信した者たちでした。彼らの多くは、今まで聞いたことのない世界観に触れ、自分自身のすべてを捧げているような姿に感動してついていった者たちでした。変な教えがお子さんたちの心に入るまえに、健全な教えが心に入っていることは重要なことです。

人は、生きる意味や働く意味などを求めてやまない存在です。その意味を求めて、人の心の中には真空状態のようになっている部分があります。真空ならば、小さな隙間(すきま)からでも、たまたま近くにあるものがすぐに入ってくる状態です。できれば、親御さん自身がそれらのことについての確かな回答を得て、それをお子さんたちに伝えることができればすばらしいことではないでしょうか。

良い教えかどうかを判断する一つの基準は、普段の社会生活に健全な意味を与えているかどうかですが、単に多くを所有することを約束する宗教の教えも人を惑わすことがあります。家族の一人がそのような教えに熱心になって、結果的に家族がバラバラになるような場合もあります。その原因は、富を約束しても、何のために生き、何のために働くのかという教えがないからです。

聖書は、社会生活を営む健全な意味を伝えています。ぜひ、教会においでくださって正しい解釈のもとで聖書を理解していただきたいと願っています。表で案内してあります「茶話会」などは、堅苦しくない集会です。ほとんどの時間は、世の中で良く知られた歌を歌います。ぜひおいでください。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。

〔大泉聖書教会牧師 池田尚広〕

(1)新約聖書Uテサロニケ人への手紙3:10