《求めよ。さらば与えられん》

このことばを聞いたことがあると思います。文語(古い日本語)の聖書には、このように書かれていますが、現代人は「与えられん」という表現を否定表現にとる人もいるかもしれません。しかしこれは「与えられます」という意味の強い表現です。現代語の聖書ですと、次のようになっています。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(※1

これはイエス・キリストが、ある山で語ったメッセージの中のことばです。自分の夢を実現するために絶えず努力することを勧めていることばのようにも理解されることがありますが、決して自己鍛練を勧めていることばではありません。聖書の文脈を見ますと、「求めよ」とは「神に求めよ」という意味で使われています。

「なんだ、そんな意味なら興味がないよ」と、言わないでください。自分のやるべきこともやらないで、神頼みばかりしている人に語られているわけではないからです。この「求めよ。さらば与えられん」に続いて語られている部分に、「天におられるあなたがたの父が、どうして求める者たちに良いものをくださらないことがありましょう。」ということばがあります。この「良いもの」とは、神以外に与えることができないような貴重なものをおもに指しています。富も地位も栄誉も生活の安定も、努力しだいで何とかなる可能性があるものです。そのようなものも神は与えてくださいますが、ここで語られていることは人の努力では決して得ることはできないようなものを、おもに指しています。「そういうことには、関心はありません」と言わないでください。ぜひ、裏もお読みください。

まず現実の富に関することをお話しさせていただきます。あるキリスト教主義の擁護施設に預けられていた男の子がいました。キリスト教主義の施設ですから、神さまについての話を聞く時間が多くあります。彼は全知全能の神の存在について聞きました。そして、その存在を信じました。それから彼は一つの願い事を絶えず神に願い続けました。その願いとは、いつか事業を起こして富を得てから、それで多くの恵まれない子たちに必要な物を買ってあげたいという願いです。彼は実際事業に成功し、その願いを実現させたそうです。これはお隣の韓国の話です。ニュースが流れてくる時は悪いニュースしか流れて来ませんが、キリスト教主義の施設も多い韓国では、そのような人も出てきているのです。

さて、「求めよ。さらば与えられん」ということばですが、このことばはおもに人間の力では得ることができないようなことについて語られています。それは、何があっても将来に希望を持ち続ける心とか、健全な自尊心とか、永遠のいのちなどがそれに当たります。これらはひじょうに貴重なものなので、神に願うしかないものだからこそタダで得られるものであるというのが、聖書が語っていることです。

「天におられるあなたがたの父が、どうして求める者に良いものをくださらないことがありましょう。」とあるように、私たちの魂の親である神は、私たちが本当に必要としていることをわかっておられて、それを与えてくださるお方です。しかし、その人が「欲しい」と思わなければ、たとえ良いものを目のまえにしても無駄です。だからこそ、求める心が必要なようです。

 ぜひ教会においでくださって、神さまが与えてくださる「良いもの」について知っていただきたく願っています。教会では、あなたのおいでをお待ちしています。

(大泉聖書教会 牧師池田尚広)

(1)新約聖書マタイ福音書7章7節