《耐えられない試練はない》

聖書の言葉で、「ことわざ」のように思われていることばが多くあります。

ドラマのセリフなどで「耐えられない試練はない」とか「神は耐えられない試練を与えない」という言葉を聞いたことはないでしょうか。なんとなく聞いたことがあるという人は多いと思います。これは新約聖書の中にあることば(※1)です。

誰でも平穏無事を求める心があると思いますが、一生のあいだで完全に平穏無事ということはありません。生きていけば困難なことだけではなく、ある時には不条理なことも経験することがあります。このような世の中で、平穏無事を求めることは、よけい疲れることでもあります。

順天堂大学の樋野興夫という先生は次のように言っています。「人の力の及ばないことには敬意を払い、委ねる(ゆだねる)ことです。自分の力ではどうにもならない事柄については思い悩まないことです。悩みのほとんどは「明日」に向けられたものです。しかし、明日何が起きるかなどはわかりません。分からないことを悩んでも仕方ないではありませんか。」(※2)。

委ねる(ゆだねる)とか頼るとか、そのような態度に抵抗感を持つ人が日本人には多いように思います。「弱い人間でありたくない」という思いが、人間ではどうにもならないことまで及んでいるように思います。

よくアメリカ人が「自分を信じろ」ということばを発しているのを映画などで見たことがあると思いますが、その背後には人間がするべき範囲と、それを超えた領域の区別があるからだと思います。

心理学でバウンダリー(Boundary)ということばがよく使われます。境界線という意味のことばですが、境界線があいまいなことが原因で、心配に支配されることが多くあります。

自分よりも上の存在を認めることはプライドに関わることで勇気がいります。しかし、それができれば今まで味わったことのない平安が来ます。たとえば、先が見えないことは委ねることができます。また、もし誰かに対して憎しみを抱いているようなことがあれば、最終的に世界を裁いている存在(神)にお任せすることができるので、憎しみに心が支配されることから解放されます。それから、試練のとらえ方も違ってきます。神の約束(「耐えられない試練を与えない」)を信じることができるからです。いちばん大きな障壁は自分のプライドです。人間には不可能なことがあると認めることで、可能なことに自分を信じて全力投球もできるはずです。

聖書では、「神は耐えられない試練を与えない」に続いて「耐えることができるように、試練と共に脱出の道も備えてくださいます」ということばが記されています。私たちのすべきことは今日できることを可能な限りすることで、あとは脱出の道を備えてくださる神を信じることです。

ぜひ、教会においでください。教会には、信仰のベテランだけではなく、来たばかりの人や、いろいろな人がいます。無料配布の聖書や、貸出聖書などもありますので、用意していただくものは何もありません。教会では、あなたのおいでをお待ちしています。

(大泉聖書教会 牧師池田尚広)

(1)新約聖書コリント人への手紙第一10:13

(2)「今日という花を摘む」(樋野興夫) 〔実業の日本社、P.103