《「自立」を成り立たせるもの》

東京女子大学元学長の湊晶子先生によりますと、英語では日本語の「自立」に当たることばはないそうです。ある講演で、まずそのことから話されたことがありました。湊先生は女性論の専門家で、女性の自立についての著書も多くあります。

アメリカでは、幼児の段階から家庭で個室に寝かされる習慣があるのはご存じだと思います。それから、親に経済的な余裕があったとしても、子どもの大学の学費は自分で賄わせることも一般的なようです。そのように、自立ということが当たり前の社会なので、自立という特別なことばが英語にはないのだと思います。

国語では「自立」の反対語は「依存」だとされています。日本では一般的に、宗教は依存の代表格のように理解されることがあります。「神に頼るほど弱くない」と言う人もいます。しかしアメリカでは神を信じることは必ずしも沽券にかかわることではありません。自立が当たり前の社会で、なぜそうなのかというと、論理的に考えれば答えは単純です。自立には土台が必要です。それは、船に港が必要なことと同じことです。

日本では、特に自分の色を持たないことが平和につながると思っている人もいます。しかし、結果的に相手の主張をじっくり聞く心の余裕もないということもあります。真の余裕は、自分の港をしっかりと持つことから生まれます。それによって、自分も一つの生き方を持っているように、相手もその人なりの生き方を持っているという理解を持つことができます。

ニュースで、過激派の主張があまりにも大きく報道されることで、特定の生き方を持つことは、あのようになってしまうことだと誤解されることがあります。過激派はあくまでも過激派であって、それを一般化することは正しい理解ではありません。逆に、自分の明確な立場を持たないことは、ある意味では感情に支配されてしまうことでもあります。たとえば、「なんとなくいやだ」とか「相手の話し方が気に食わない」とか、そのような些細なことで仲たがいすることもあります。自分の立場を持たない生き方が感情の支配を招くこともあるのです。

これから日本の学校教育でも、だんだんとディベートを取り入れていくと思います。ディベートとは自分の意見を述べ、相手の主張を聞いた後に互いに議論をする学習方法です。日本の学生たちは現在、外国の学生たちとあまりにも議論ができない状態にあります。それは、英語ができないということ以前に、経験がほとんどないからです。しかし、日本で急にディベート学習を取り入れても、感情的になったり、後で互いにシコリが残る可能性があります。なぜなら、個人個人が自立していないからです。それを妨げているのが、「何かに頼ることは弱い」とか、「特定の考えを持つことは自分を狭くする」などという考え方です。

 危険なカルトが出てきて以降、宗教全般に対して警戒感を持っている人が多くおられます。宗教を判断する方法として、いくつかの方法があります。たとえば、他の宗教の悪口を言ったり、他の宗教のチラシがポストに入っていただけで縁起が悪いかのように思う宗教は、自分に自信がないことに起因しています。自信があれば堂々としていればよいのです。また、信じたら良いことばかりあることを約束する宗教も偽りです。

 キリスト教会に行くことは勇気が必要なことかもしれませんが、信じることを強要するようなことはありませんので、ぜひ足を運んでくださることを願っています。表ページにクリスマスの案内が記されています。ぜひ、おいでください。お待ちしています。

〔大泉聖書教会 牧師池田尚広〕