《ぶたに真珠》

聖書の言葉で、「ことわざ」のように思われている言葉が多くあります。この「ぶたに真珠」という言葉も聖書のことばです。イエス・キリストが周りに集まってきた民衆に語った言葉の中に、この言葉が出てきていて、正確には、次のように語られました。「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」(※1)

「聖なるもの」や「真珠」は、いったい何を意味していたのか、どのような文脈で語られたのかを知らなければ、真の意味は理解できないことになります。

ネットの〔故事ことわざ辞典〕には、これは新約聖書の言葉であると説明したうえで、「値打ちがわからない者には、どんなに価値があるものを与えても意味はなく、無駄であることのたとえ」と記されています。確かにその説明の通りですが、何を価値あるものとして語られたのか、ぜひ知っていただきたいと思います。聖書の文脈によれば、その価値あるものとは「永遠のいのち」ということです。

私たちの普段の生活の中で、突然そのようなことを語れば、場の雰囲気を害してしまうことになります。そればかりではなく、二度と近づいてはくれないかもしれません。しかし、お葬式などで、人は死んで終わるのではなく永遠の希望があるのだということを語るために、永遠のいのちがあるということを語れば真剣に聞いてくれるかもしれません。

ところで、キリスト教のお葬式に出席されたことがあるでしょうか。厳粛な時ではありますが、そこには明るさがあります。

その明るさの元になっていることが、「永遠のいのち」です。よく「また会おう」と死にゆく人に言うことがありますが、本当にそのように信じているなら、悲しみに支配されることはないはずです。天での再会の望みが架空のことなのか、確信から来ることなのかが問われているのだと思います。

聖書は、善行を行えばそのような確信が与えられるとは言ってはいません。また、修行をしたらそのような確信に至れるとも言ってはいません。では、何をしたらよいかというと、イエス・キリストが自分の罪のために死なれたことを告白しなさいと言っています。そして、そうするならば、神はその人の罪を赦し、永遠の希望を与えてくださると約束しています。十字架がキリスト教会のシンボルとなっているは、キリストの死とあなたは関係があるのだと示していることでもあります。時と空間を越えて、キリストの犠牲があなたに恵みを与えるということは、バカバカしいことのように思われるかもしれません。しかし、そのことをまともに信じた者たちに永遠のいのちへの確信を与えていることは事実です。

キリスト教会ではよく罪という言葉が使われます。罪とは犯罪のことではなく、いっさいを見ておられるきよい神のまえに正しくない思いや行動などを指します。その罪を消すことは、いかに善行を積んでも修行をしても不可能です。しかし、神は人を愛し、救世主とも言われるキリストをこの世に送り犠牲とされました。この事実が「福音」と言われているものであり、聖書の中心的なメッセージです。この事実を中心に語っているのが真のキリスト教であり、そうでないなら、それはキリスト教ではありません。

永遠の希望を持つことは、現実の生き方にも大きく影響します。ぜひ、教会においでください。お待ちしています。
(1)新約聖書マタイ福音書7:7

〔大泉聖書教会牧師 池田尚広〕