《一日の労苦は一日にて足れり》

この言葉を聞いたことがあると思います。これは新約聖書の中にあるイエス・キリストの言葉です。現代の訳では、労苦はその日その日に、十分あります」となっています。

ユダヤ人は金融や自然科学・医学の基礎研究など、多くの分野で優秀さを示していますが、将来設計のことに考えが及び過ぎて、思い煩ってしまう傾向があったのかもしれません(キリストは2000年前のユダヤ人に、この言葉を語っています)。ところで、この言葉のえに次のような言葉が語られました。

「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。」(1)

 キリスト教宣教師として、日本人も東南アジアの国々などに出て行っていますが、宣教師としての経験のある人が「その地域の人はまったく明日のことを心配していないので、この言葉を語る必要はぜんぜんなかった」と言っていました。将来のことを心配するのは世界共通のことではないようです。

私たち日本人は将来のことを心配し過ぎる傾向があります。そして、それが思い煩いに変わることがあります。

一口に「将来の心配」と言っても、その人の年齢や立場によって心配の内容が違うはずです。子どもを持つ親御さんたちは、子どもの将来を心配し過ぎて、何でも事前にお膳立てし過ぎる傾向にあるように思います。社会に出ればお膳立てがあるわけではありませんから、急にそれがない状況に放り出されて困惑し、せっかく入った会社を辞める人もいるそうです。

子どもに対しての過度の御膳立ての背景には「子どもは自分のもの」として考えてしまうことがあります。

 ある医師は「親子関係がうまくいかなくなるのは、多くの場合、親が子どもを自分の所有物のように考えているからです」(2)と言っています。ずっと所有しているもののように思ってしまえば、どうしても過干渉になってしまいます。そして、こんなに心配しているのにわかってもらえないということで、さらに悩みが深くなる場合もあります。

聖書で「野のユリがどのように育つかをよくわきまえなさい」と語られている意味は、すべての命を握っている存在に目を留めなさいということです。そうすることによって、私たちの命や子どもも一定期間預けられたものであって、所有しているものではないことを忘れないようにという意味があります。自分が所有しているという考えが元になって、思い煩いが生じることがあるからです。

それから、そもそも将来のことは誰にも明確なことはわからないものです。不明確なことの中に確実なことや平穏無事を求めてしまって心配や思い煩いに陥ってしまうことがあります。聖書は、心配しても誰も自分の命を延ばせるはずはないから一日一日を精一杯生きなさいと語っています。そういう意味の「一日の労苦は一日にて足れり」ということです。

将来は自分が切り開く部分もありますが、深刻な病や死のような人間ではどうしようもない部分もあります。また、将来どのようなことに遭遇するかということも、私たちが選べるわけではありません。人が根本的に心配から解放されるには、神が所有している部分があることを認めることです。

以上のようなことなどを、ぜひ教会においでくださって知っていただければ幸いです。信仰を持つことを強要することは決してありませんので、ぜひおいでください。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。

〔大泉聖書教会 牧師池田尚広〕

(1)新約聖書マタイ福音書62728

(2)樋野興夫著「いい人生は最後の5年で決まる」(SB新書)P86