《重荷をゆだねる》

この世の中が、正しいことを行っていればすぐに良い報いを受けることができるような世界であれば、私たちは心の重荷を持たずに済むのかもしれません。しかし、逆に悪を行う者が栄えたりする現実を見て、重荷がさらに増す場合さえあります.

あなたはこのような現実の中で、自分にどのように言い聞かせて生きておられるでしょうか。聖書の中には、「重荷を(しゅ)(神)にゆだねよ」という言葉が多く出てきます。「ゆだねる」とは、「おまかせする」ということです。ある箇所には次のようにあります。

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(※1

 そもそも神が存在するなら、心の重荷を持たなければならないような状況そのものを排除できるはずではないかと考える人もおられると思います。神は全知全能ですから、そのようなことをやろうと思えば可能ですが、どうも神のみこころは、人間が不条理とも思えるような状況のもとでも、神にゆだねることのようです。

 第16代のアメリカ合衆国大統領アブラハム・リンカーンの大統領就任演説の中で次のような一節があります。

「なぜ国民によって最終的に正義が行われることを、我慢強く信頼しないのでしょうか? 世界にこれ以上あるいはこれに匹敵する希望があるとでもいうのでしょうか? 現在のわれわれの意見の食い違いにおいては、お互いに自分が正しいと信じることがないのでしょうか? 全世界を統治する全能の神が、永遠の真理と正義で、北側か南側の立場に立ったとするならば、その永遠の真理と正義は、アメリカの国民の重い審判による判断で、かならず勝利をおさめることでしょう。」(open-shelfより)

 リンカーンは、希望とは最終的に正義が行われることだと言っています。「最終的に」という言葉を使っていることは、その時までに人間は紆余曲折の時を過ごすということが前提になっています。すべての判断を下すのは私たち人間であっても、この世には最終的な審判者としての全能の神がおられるのだという信仰がリンカーンの演説の中に見ることができます。

最終的な審判者である神が、なかなか出口が見えないような紆余曲折の時を、なぜ人間に過ごさせるかは明確な回答は見つかりません。もしかして人間という生き物は、困難や苦しみという痛みを通らならければ真理を体験的に学ばないからなのかもしれません。

今世界では、自分の信じる神の名のもとに他宗教の信者を苦しめることが、神に貢献しているかのように信じる者がいます。そして、そのような人は、自分の信じていることが正義である信じているわけです。このような現実を見て、多分多くの日本人は信仰や宗教というものに対してますます嫌悪感を抱いておられるのではないでしょうか。それでも、あなたの心の中では、最終的な真実な審判者がいてほしいと願う思いもあるのではないでしょうか。リンカーンにとっては、最終的な真理の審判者の存在こそ希望だったと思われます。重荷を神にゆだねるとは、「棚からボタモチ」を期待するような生き方ではありません。それは、どんなことがあっても真理の審判者への期待を持ち続ける生き方です。その審判者は人種や生い立ちなどを理由に人を分け隔てなどする存在ではありません。リンカーンは、「聖書は、神が人間に賜った最もすばらしい賜物である」と言っていますから、それらの理解を聖書から得ていたはずです。

ぜひ、教会においでくださって正しい解釈のもとで聖書を理解していただきたいと願っています。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。〔大泉聖書教会牧師 池田尚広〕

(※1)旧約聖書詩篇55:22