《ベートーベンの手紙》

耳が聞こえない状況でベートーベンは第九交響曲を書いたことは有名な話です。

ベートーベンは20代後半から持病の難聴が悪化していき、やがて音楽家にとってはいのちとも言えるような聴力を失ってしまいました。そこには多くの苦しみが伴ったことは想像できます。ベートーベンの死後、日記のような感じで書かれた宛名のない手紙が発見されました。その中に、次のような一文があります。

「全能の(しゅ)(神)よ。あなたは私の胸の奥にある、私の魂をのぞかれ、私の心を見抜いておられます。私の心の内に、人類への愛と、善をなしたいという欲求とが満たされているのを、主よ、あなたは御存じです。」〔32歳の時〕(1802年)

また、40歳の時には次のような一文を記しています。

「私には友がいない。ひとりぼっちで生きていかなければならない。だがわかっている。創造主(神)は、誰よりも私の近くにおられるのだ。恐れずに私は神に近づく。どんな時でも、このお方が私と共におられることがわかる。そして、私は主がどこようなお方かということも知っている」(1810年)。

 手紙の中の文章から、ベートーベンと神との関わりを見ることができます。ベートーベンにとって神との関係は、いわゆる宗教行事のようなものではなく、現実の神との交わりであったことがわかります。孤独の中で、実際に彼を励まし慰める存在をベートーベンは体験していたのでした。

 手紙の中で「主」とか「創造主」という言葉が使われていますが、それは聖書に示された神を意味してします(聖書はキリスト教の経典です)。

キリスト教会にあまり馴染みのない方は、キリスト教で言う神という存在とキリストという存在はどのような関係なのかと疑問に思うこともあるかもしれません。カトリックであっても、プロテスタントであっても、「父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊」の三位一体という教理が中心にあります。

聖書の中に、「御子(みこ)(キリスト)は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ」(1)という言葉があります。つまり、キリストの中に神の性質が完全に現されているということです。ベートーベンは当時、キリスト教社会の中で生きていました。当然、神という存在とキリストは一体の存在として理解していたはずです。

聖書のある箇所に、キリストの弟子の一人が生まれつき目の見えない人が近くにいた時に、その人についてキリストにそっと質問をしたところがあります。その弟子は、「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と聞いたのです。それに対してキリストは、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」(2)と答えたのでした。その意味は、目が見えないというその状態を通して、神がすばらしいことを行ってくださるという意味でした。ベートーベンは、「主がどのようなお方かということも知っている」と言っていますが、キリストのそのような言葉も彼の思いの背後にあったのではないでしょうか。

キリスト教信仰は、決して人に信仰的重荷のようなものを与えるものではありません。むしろ、解放を与えます。ぜひ、教会においでください。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。

〔大泉聖書教会牧師 池田尚広〕

(1)新約聖書ヘブル書1:3

(2)新約聖書ヨハネ福音書9:3