《デス・エジュケーション》

欧米の学校教育の教科の一つにデス・エジュケーション[Death Education](死の教育)というのがあるそうです。その教育の趣旨は、人間はいつか必ず死ぬものだということを子どものうちに教えることのようです。

最近の日本の自殺統計によりますと、自殺の数自体は減っているそうですが、若者の自殺率は減ってはいないそうです。このような状況下で、その教育を取り入れたらどうなるか、まったく想像の域を出ませんが、逆に減るのではないかと思っています。なぜなら、明日死ぬかもしれないということを心せよという教育は、死に急ぐことの防波堤になり得ると考えられるからです。

ところで、年を取れば誰でもおのずと死を意識するものだと思います。哲学者の堀秀彦氏は次のように語っています。「七十代までは、年ごとに私は死に近づいていきつつあると思っていた。だから、死ぬのも生き続けるのも私自身の選択できる事柄のように思われた。ところが八十二歳の今、死は私の向こう側から一歩一歩、有無を言わせず私に迫ってきつつあるように思われる。私が毎年毎日、死に近づいているのではなく、死が私に近づいてくるのだ。」

堀氏は、「七十代までは、・・・死ぬのも生き続けるのも私自身の選択できる事柄のように思われた」と言っていますが、その考えが私たち日本人の一般的な考えではないでしょうか。

医師の柏木哲夫氏は、「自分と死との間に距離があるのではなく、自分は死を背負っていると考えておくほうが現実的ではないでしょうか」と言っています。「死を背負う」という意味の説明のために、柏木氏は新聞に掲載された川柳を自身の著書の中で紹介しています。

「生受けたその場で背負う死の定め」

「生の先ではなく隣に死は潜む」

また、柏木氏は初孫が生まれたときの体験を次のように記しています。「新生児室に行ったとき、20人ほどの赤ちゃんがいました。それを見たとき、ふと『この赤ちゃんはやがてみんな死ぬのだ』と思ったのです。ホスピス医として日々死と対峙していたからなのかもしれませんが、生まれたばかりの赤ちゃんを見て、その赤ちゃんの死を思う自分に対して、妙な気持ちになったのです。しかし、前述の川柳のように赤ちゃんはその場で死を背負ったことには間違いありません。」

重い病気にかからなくても、事故や自然災害に遭わなくても、人はやがて死んでいくものですが、そのことを子どもにうちに教えることは、「生」は当り前のものではなく大事にしなければならないものだという思いを与えることになると思います。

英語で「生まれる」という表現をする場合は、「生まれさせられる」と受動態で表現します。誰も自分の意志で生まれようと思って産まれてきた者はありません。みんな産まれさせられた存在です。そして、その命は神がそれぞれの両親を用いて与えたものです。

私たちはみんな、それぞれが背負っている死の時が来れば与えられた命を返さなければなりません。聖書の中に「これは(しゅ)()が設けられた日である。この日を楽しみ、喜ぼう」(1)という言葉があります。死を背負っているという意識は、楽しみや喜びを否定した宗教観に人を導くこともあるかもしれませんが、聖書は決してそのような宗教観を語ってはいません。自分に与えられた日々を有意義に喜んで過ごすことが、神が私たちに願っていることです。

あなたという存在をこの世に置かれた神について知ってくださることを願っています。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。〔大泉聖書教会 牧師池田尚広〕

引用部分は、「心のケアーとコミュニケーション」(柏木哲夫著、いのちのことば社)より引用

(1)旧約聖書詩篇118:24