《自分探し》

早稲田大学名誉教授の東後勝明先生が現役の教授だった頃、学生の悩み相談を受けていた時がありました。不登校や引きこもりなどは、中学生や高校ぐらいまでのように思われている人も多いかもしれませんが、大学生にもあるそうです。その他、うつ状態や摂食障害などの問題を抱えた学生もいたということです。

それで、東後先生がそのような問題を抱えている学生たちの家庭に注目しました。その後のことを、先生は自身の著書の中で次のように記しています。「保護者に会って面談をしてみると、大半が高学歴で経済的にも恵まれた家庭でした。このことからも、人はそういうことでは本当に幸せにはなれないことがわかります。そして、悩みを抱えた学生は自分探しに苦しみ、遂には親の反対を押し切って退学し、初めて自分を見出し、そこから本当の自分を生き始めるというケースが何例かありました。世間では学校がすべてのように考える風潮があるようですが、学校以外にも人が生きる道はいくつもあるということを、こうした例は示しています。」

(東後勝明著「あなたはあなたでいいーあとはイエスにゆだねてー」新教出版社、P.159より)

 この本には、「本当の自分を生き始めるというケースが何例かありました」とありますが、それ以外のケースは、不登校、引きこもり、うつ状態、摂食障害の状態が続いたと考えられます。親に反発して立ち直った学生たちのことを考えると、親に反発する意志を持ったことが回復につながったわけですから、そうなったならば親は歓迎してあげなければならないとも言えます。

 多くの親御さんは、お子さんのために犠牲をいとわず御苦労されておられることと思います。子どもが親に反発したら、自分の意見を持ったことを親は歓迎するぐらいの心の広さを持っている必要があるかもしれません。

ところで、「自分探し」ということですが、自分は何をやりたいのか、ということの発見とも言えます。そのようなことは大学卒業後になんとなく見えてくることもあるかもしれませんが、先ほどの不登校や引きこもりになった学生は、大学に入ることそれ自体が人生の最大の目標であるかのように親に説得されながら生きてきたのではないでしょうか。

「自分は何をしたいか」、「自分はどのような能力があるか」とか、そのような自分探しの他に、すべての人は「人間はなぜ生きなければならないのか」という自分探しもしているものだと思います。不登校や引きこもりになっている人たちは自然とそのような問いもしているのではないでしょうか。親に食わしてもらって贅沢な悩みと思われるかもしれませんが、食べるために生きるのか、生きるために食べるのか、重要な問いとも言えます。

聖書の中に次のような言葉があります。

『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』(新約聖書マタイの福音書4:4)

「パン」は食物を代表することばとして使われています。「パンだけで生きるのではなく」とありますから、食物も重要なものだという前提があります。食物などは程度が低いものだという発想はキリスト教にはありません。ですから、食べるために生きているという人に対して、その生き方を批判してはいません。食べるということは生きていくうえで重要な要素です。ただ、食べるという目的だけで生きるのではなく、神のことばを土台にしながら生きるものだと語られています。

 神のことばとは聖書のことです。

聖書は、神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。」(アブラハム・リンカーン)

聖書を都合よく解釈する団体もありますから注意が必要です。ぜひ、こちらにおいでくださり、聖書のことばを学んでいただきたいと願っています。おいでをお待ちしています。

〔大泉聖書教会牧師 池田尚広〕