《資本主義は信用》

 「偉材塾」という塾があります。この塾は、学習塾ではなく、正規雇用をされてない方(非正規雇用をされている人や、フリーターの人など)が、この塾で訓練を受けて、塾の信用で正規雇用を獲得するための塾です。しかし、その厳しい訓練に耐えて、最後まで研修を終えることができる人はわずかのようです。訓練は、お茶の入れ方から、人との挨拶のしかた、さまざまです。この塾の講師の方が、塾生たちに「資本主義は信用である」と教えていました(テレビ番組で)。資本主義というと、弱肉強食というイメージを抱く方が多いと思いますが、資本主義の根幹には「信用」というものがあります。

若者たちが、テストで良い点数を取るためにだけに関心を抱き、信用とか、誠実とかを後回しにする傾向が強くなっているのではないでしょうか。その背後には、とにかく良い学校に入り、良い職業についてほしいと願う親の存在もあるような気がします。あなたの子どもが、本当に成功するためには、信用と誠実を教えなければならないのではないでしょうか。もちろん、その子の能力の限界もあれば、やる気の問題もあります。また、積極的に利益を目指す態度も必要でしょう。でも、現代はあまりにも、人の信用や誠実で物事が動いているということが理解されていないような気がします。そして、そのことを理解していなければ、子どもたちが将来、大きな損をするはめになるということを、親も理解していないような気がします。

 体育会系の部活動は、先輩を敬うなどの、ある一定の効用を与えているかもしれません。しかし、不特定多数の客や、取り引き先の人に通用する態度を養うかというと、そうではありません。

 何が一番良い教育かといえば、親の生き方そのものがいちばんの教育であるのは、言うまでもありません。しかし、親が立派な生き方をしているかというようなことを考えると、どうしてよいかわからなくなるものです。そのように考えるより、親自身が何かに対して誠実に生きようとしているかということを考えたほうが、物事の本質が理解しやすくなります。

 あなたは何かに対して、誠実に歩もうとしておられるでしょうか。あなたのお子さんは、その態度を見ています。利益を得るための占いや、多額のお金を得るための宗教では、誠実ということは無関係です。なぜなら、利益とお金に対して誠実であるとは言わないからです。誠実とは、真理とか、相手の本当の幸福ということに関係がある言葉です。そして、誠実とは、無人格的なものに対する態度ではなく、人格的な存在に対しての態度です。

 宗教というと、習俗・習慣のような無人格的なものです。誰も宗教に対して誠実になれません。しかし、神に対しては、人は誠実になれます。

自分が本当に誠実になる存在を受け入れることは、たやすくできることではないかもしれません。でも、自分はこれに対して誠実に歩んでいるという対象を、人は必要としているのではないでしょうか。あなたのお子さんやお孫さんのためにも、あなたが誠実に生きる対象は必要です。

 「神」ということばは、現代ではあまりにも多くの人がさまざまな使い方をするので、人を不安に陥れる言葉ともなりました。しかし、生きた神が本当にいるとすれば、神は完全な裁判官であり、この世のいっさいの法則を支配しておられるはずです。そして、神は親のように子どもである私たちを愛してくださるはずです。

 あなたが神を信じるのに困難を覚えるのは、宗教的である人たちの争いである場合もあるかもしれません。あるいは、クリスチャンと自称する人たちの間違った行動である場合もあるかもしれません。

 でも、真の神は存在するはずだという思いを持っていただきたいと願っています。そして、神とは抽象的な概念のことではなく、実際に存在する人格をもった方だという視点を持っていただきたいと願っています。そして、あなた自身の幸せのためにも神に対する誠実を持っていただきたいと願っています。

 はじめは、わからないことが多いと思いますが、ぜひ、教会においでくださり、聖書を学んでいただきたいと思います。

貧しい家には、大切な聖書が1冊あるのみでした。母親のナンシーは、とても優しく信仰の厚い人で、夕食がすむと「エブ、さあここにいらっしゃい、今日はどこからだったかしら」と聖書を開きます。
そしてアブラハム・リンカーンは聖書の話を、母の膝にもたれて聞くのが何よりも楽しみでした。

       岩田春子著「春の泉」より

 誠実な人は、誠実な人によって育てられます。ぜひ、教会においでください。おいでをお待ちしています。(聖書を使う団体は多くあります。信用できるところに行かれることを願っています)

       (大泉聖書教会牧師 池田尚広)