《休む意味》

一週間という単位の起源をご存じでしょうか。当たり前のようにカレンダーでそのようになっていますが、一週間が七日という単位の起源についてご存じの人はあまりいないのではないでしょうか。

一週間が七日ということは聖書に起源があります。そして、七日のうちの六日間ですべてやるべきことをやって一日を安息の日としなさいという命令も聖書に記されています(1)。休むということは、単に体と精神を休めるということだけではなく、私たちに命を与えた神に思いを向けることも意味していました。

現代はかなり変化してきましたが、昔は、いわゆるキリスト教国では日曜日に多くの人が教会の礼拝に行くので、日本人の旅行者などは日曜日に商店が閉まっていて困ったという話しを聞いたことがあります。

わが国では江戸時代まで、休みは「盆」(8)と暮れ(年末年始)しかありませんでした。明治時代になって、新政府が西欧文化を取り入れようとしたことで、キリスト教に基づく今のカレンダーが入ってきました。それで日本でも日曜日が休みの日になったのです。

 ところで、日曜日に教会に行くという習慣についてですが、その行為がなぜ休むという行為と関連があるのかと思う人は多いのではないでしょうか。以前にも書いたことですが、私たちの教会に来ている若い人が、教会に通っている様子を見た人から「若いのに偉いわね」と言われたことがあります。

 「若いのに偉いわね」の背後には、「この人は精神修養に興味があるような特別な人だ」というような考えがあるのだと思います。これとは逆のことかもしれませんが、私の知り合いの牧師は、彼がサラリーマンだった頃に毎日曜日に教会に通っていたので、会社の同僚から「あいつは宗教に逃げている」と噂されていたそうです。

日本には、教会に行くような人は精神修養に興味を持つような特別な人であるという考えと、その人が弱いから宗教に頼るのだという考えがあるように思います。

ところで、話しは変わりますが、休みの日でも忙しい人は仕事のことが気になってしかたがないことがあります。休むとは、向いている意識を別の方向に向けることでもあります。聖書で、私たちに一定期間の命を与えた神に思いを向けるという行為を七日のうち一日しなさいと命じられているのは、それが究極の休むという行為なのだという発想があります。

国際弁護士資格を持ち、忙しく働いているある人が著書で次のように書いています。

「日曜日に教会で心を静めて聖書の話しを聞き、大きな声で讃美歌を歌っているうちに、心のもやもやが消えていく。同時に身体もいやされているに違いない。アメリカの統計では、毎週日曜日に教会に行っている人々は、そうでない人々よりも十年も長生きしているそうだ。天地万物の創造主(そうぞうしゅ)を信じるか否かは、人の健康と寿命にまで大いに関係している。」(2)

このことからもわかるように、教会に通う者たちは暇だから通っているわけでもなく、修行に興味があるから通っているのでもありません。また、特別なご利益を祈願するために通っているのでもありません。そこには本当の休みがあるから通っているのです。ですから、中には忙しいからこそ通っている者もいます。

最初はわからないことも多いかもしれませんが、ぜひ教会においでください。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。

〔大泉聖書教会 牧師池田尚広〕

(1)旧約聖書・出エジプト記20:9,10

(2)佐々木満男著「どんなことにもくよくよするな」

  (サイト出版)P.19~20

 

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