《幕末の指導者・勝海舟(かつかいしゅう)

勝海舟という名前は、ほとんどの人が聞いたことがあると思います。幕末の偉人であり、新しい日本の(かじ)取り(とり)に大きな役割を果たした人物です。

司馬遼太郎は『明治という国家』の中で、次のように書いています。「幕末のいわゆる志士のなかで、明治の改革後の青写真、国家の設計図をもった人は坂本竜馬だけであっただろうと思いますが、それは勝という触媒によってできあがって行ったものでしょう。さらにいえば、カッテンディーケが勝にとっての触媒だった。それが竜馬にうつされてゆく。」

竜馬は当初尊王攘夷派でしたが開国派の勝に会って、いろいろな話を聞いたことがありました。勝はアメリカで見聞きした民主主義に関係するさまざまな話を竜馬にしたと思われます。国際的な交易の重要性を説く勝のことばは、竜馬を興奮させたのではないでしょうか。(ちなみに、一説によると竜馬は開国派の勝を暗殺するために会ったとも言われています)

勝海舟は1860年に咸臨丸(かんりんまる)でアメリカに渡り、当時の新興国であったアメリカの国造りの息吹に触れています。『新訂・海舟座談』(巌本善治編)では、勝はサンフランシスコのキリスト教会の日曜礼拝に出席して、その熱心さを褒められたというエピソードが載っています。当時の日本はまだキリスト教禁制の時代でした。毎週のようにキリスト教会の礼拝に出席していたということは、心の中で期するものがあったと考えられます

アメリカに渡るまえの1855年に、勝海舟は長崎海軍伝習所で航海術に関する訓練を受け始めています。この伝習所は幕府がオランダから講師を招いて開いたものでした。講師の一人にカッテンディーケという人物がいました。彼はオランダ改革派教会に属するクリスチャンとして伝道にも熱心だったそうです。後に勝海舟がサンフランシスコに行って熱心に教会に通った背景には、すでに伝えられていたことに興味があったからはではないでしょうか。

山手線田町駅前の三菱自動車ショールームのある場所に「江戸開城・西郷南洲・勝海舟会見之地」と掘った丸い石碑が建っています。西郷南洲とは西郷隆盛のことですが、江戸城が無血開城された背景について、守部喜雅氏は次にように著書に書いています。「海舟と西郷の間には、幕府側と新政府側という立場を超えて、深く通じ合うものがありました。それは海舟もそうですが、西郷も藩や幕府といったこの地上での権威以上の〔絶対者の存在〕にひざをかがめていたサムライだったのです。」『勝海舟最後の告白』(フォレストブックスP.53)

勝の息子の嫁(クララ)の兄ウィリスは医師で、勝が亡くなる時「私はキリストを信じる」とはっきり聞いたと言っています(1)

この国の転換点にもキリスト教は深く関係しており、あなたも完全に無関係とは言えません。ぜひ一度、教会においでくださることを心からお待ちしています。

(大泉聖書教会 牧師池田尚広)

()〔クララから知人エドワード・クラークへの手紙〕                                

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