《日本の女子教育》

日本史でペリーの来航(1853年)のことを覚えている人は多いと思います。その6年後(1859)に、プロテステント諸教派の宣教師が長崎、横浜にやって来たことを初めとして多くの宣教師が来日し女子教育も盛んになっていきました。

それまで日本には家制度というものがあって、「私」や「個人」というものは、「家」などの上の権威のために存在するという考えが中心でした。そのなかで、妻の存在や女性の地位は特に低いものでした。

そのような状況を見て、宣教師たちは女子教育の必要を感じたのだと思われます。そして多くの女学校を作っていったわけですが、たとえば、次の学校が現在でもよく名が知られている学校です。( )内は設立年

 フェリス和英女学校(1870年)
  共立女学校〔横浜共立学園〕(1871年)
   青山女子小学校(1874年)
   神戸ホーム〔神戸女学院〕(1875年)
   立教女学院(1877年) 
   東洋英和(1884年)      

   福岡女学院(1885年)
   広島女学院(1886年)
   宮城女学院(1886年)
   女子学院(1890年)

これ以後、キリスト教宣教団体以外の設立者による女学校も多く設立されるようになりました。

女子英学塾〔津田塾大学〕(1900年)
 日本女子大学校〔日本女子大学〕(1901)
 東京女子大学(1918年)

ただし、キリスト教宣教団体以外の設立者たちもキリスト教思想の影響を受けている人たちでした。

・津田梅子(アメリカ滞在中に洗礼を受けてクリスチャンになっています)

・日本女子大学の設立者として、広岡浅子、成瀬仁蔵の名が挙げられますが、広岡浅子(実業家)は63歳の時にキリスト教の洗礼を受けています。広岡浅子は日本女子大学校設立時には、初代校長として元牧師成瀬仁蔵を据えています。

・東京女子大学の初代学長は新渡戸稲造(初代国際連盟事務次長)ですが、新渡戸は札幌農学校時代にクリスチャンになっています。(大学設立時には北米キリスト教プロテスタント諸教派の援助もありました)

以上のように日本の女子教育において、キリスト教は大きな働きをしていると言えますが、その動機となったものは「個人の尊厳の尊重」ということだろうと思います。特に、当時の日本の女性が個人の尊厳が尊ばれていなかったことが背景にあり、たとえば、女性は子ども生む道具のように理解されることもありました。

「個人主義」と言いますと、特に年配の方々はそれを「自分勝手」と理解する傾向があるように思いますが、個人主義は個人の尊厳の尊重です。現在、イスラム過激派などの影響で、一神教は残酷で多神教は平和な社会を作ってきたと言う人が多いですが、日本の歴史や他の多神教社会の歴史を見れば、個人の尊厳を尊重してきたとは思えません。

奴隷解放宣言を行った第16第合衆国大統領アブラハム・リンカーンは、「私は聖書を、神が人間に下さった最高の贈り物と信じている」と語っています。他の人が語った聖書の解釈ではなく、あなた自身が聖書のことばを読んで正しい解釈のもとで理解していただきたいと願っています。教会では、あなたのおいでをお待ちしています。

〔大泉聖書教会 牧師池田尚広〕

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