《二つの反応》

 この日本の社会で、キリスト教会へのお誘いをしますと、だいたい二つの反応があります。

 ひとつは、間に合っていますという反応で、もう一つは、自分はそれほどきよくはないので、キリスト教会など行けませんという反応です。

最初の反応については、宗教に頼るということは弱いことだという考えが、私たち日本人の考えの根底にあるのが原因だと思われます。それでいて、日本は自殺大国です。むしろ、人間は弱いものだということを認めて、神のもとへと来ていただきたいと願っています。

 次の反応については、誰もがそのように考えておられるとは思いませんが、一部の方々はキリスト教会というものを、きよいイメージでとらえていてくださいます。そして、自分などふさわしくありませんと思われる方がおられます。また、立派に歩まなければならないという説教が、教会ではいつでも語られるように思うので、会社で疲れ、さらに教会でも説教されたらたまりませんという方もおられるのではないでしょうか。確かに、聖書の中には、正しく歩めというメッセージも多いですが、神の恵みについて語られているところも多くあります。よく紹介される聖書のことばに次のものがあります。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(新約聖書マタイ1128

ここで、「わたし」と言っているのはイエス・キリストで、キリストを信じるなら安らぎがくるということが語られています。合格した者がキリスト教会に行くのではなく、求める思いや興味があるなら、誰でもキリスト教会に来なさいということでもあります。

 話は変わりますが、私たちの社会で、誰かが何かの宗教を信じたということを聞くと、それを聞いた人は、よっぽど辛いことでもあったのかしらと思うことが多いようです。日本の社会は、辛いことと宗教が結びついている社会です。そこで、キリスト教会の中にも、辛そうな人たちが多いかもしれないと思われる方がおられるのではないでしょうか。そのような方も来られますが、決してそのような方ばかりではありません。幼い時から神の存在を普通に信じている人もいれば、信じるきっかけは辛い体験でも、今はそれが信じる理由ではなく、神を信じることが人間本来の生き方だと認めて信じている人の割合のほうがはるかに大きいです。

辛いことと宗教とが結びついているということを表ページに書きましたが、その流れはまだ続いている中で、最近は少し状況が変わってきました。人々は宗教は信じなくても、宗教的なことには抵抗感がなくなっているように思います。たとえば、運勢や占いなどの宗教的なことは自然に受け入れている人が多くなってきたように思います。その背景には、「自分探し」ということがあるのではないでしょうか。本来の自分を探し出せば、やるべきことと、やってはいけないことがはっきりして、自分本来の歩むべき道を歩むことができ、そして幸せを見つけることができるという考えがあるように思います。また、自分はどう生きるべきなのか、細かい具体的な指示をもらうことが、自分探しとなっているように思います。

 キリストを信じる信仰を持つことに対して、自分がなくなってしまうように思って、抵抗感を持つ方がおられます。しかし、聖書の中には、たとえば勝負の時には何色の衣服を着たら良いことがあるとか、そのようなことは何も書いてありません。むしろ、人間は自ら考え、何が本当に良いことなのか、神を意識しながら、自分で選び取ることが人生であるという前提が聖書にはあります。ただ、それだけではなく、「あなた」という存在は、偶然の産物ではなく、両親の産物でもなく、神の作品であるということも書かれています(新約聖書エペソ210)。本当の自分探しは、自分に何が似合っているかとか、そのようなことを探すこと以上に、なんで生きているのかとか、なんでこの個性を持って生まれてきたのかという理由を持っておられる方(神)を信じることではないでしょうか。

 自分の意味を信じることができるなら、今の自分の持っているものを使うだけでそれでいいと考えることもできます。また、生かされたのなら、何かやることもあるはずだと考えることもできます。ヘレン・ケラーも、アシュリー(フジテレビで数回放送された。体が早く老化する病気を持つ少女)も、神を信じ、自分らしい歩みをしました(している)。

 教会では、あなたのおいでをお待ちしています。はじめはわからないことも多くあるかもしれませんが、気にしないでぜひおいでください。

      (大泉聖書教会牧師 池田尚広)