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新約聖書 
マルコ2:13〜17

罪人(つみびと)を招く主


2:13 イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。
2:14 イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
2:15 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
2:17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

1.ある医師のこと。

ある総合病院の院長Aさんが飲酒運転で加害者となりました。そのことがマスコミでも大々的に報道されて、それまで自信に溢れて生きてきたAさんは人生で初めて落ち込みました。Aさんの奥さんはクリスチャンだったそうで、それまで聖書など拒否していたAさんは静かに聖書を読みだしたそうです。

新約聖書マルコの福音書2:17を見たAさんは、何かに向かって赦しを請いたい思いに駆られたそうです。その後、聖書を読んでは涙する日を過ごしたということです。また、「私は私を創造された神を忘れ、あたかも自分が世界の中心であるように勝手な道を歩んできました」とAさんは告白しています。(「続・生きる勇気が湧いてく聖書のメッセージ」クリスチャン新聞編P.42-44より)

2.存在の意味を考える時。

人間というものは、いわゆる「健康でない時」に、自分を世界の中心とした考え方から本当の世界の中心である存在(神)について思う余地が心の中にできるものです。

アルパヨの子レビ(マタイ)も、取税人という立場であるゆえに、自分の生きる意味や価値を見失っていた「健康でない者」と考えられます。取税人は異邦人であるローマ帝国に仕える者であり、当時のユダヤ社会では呪われるべき者と思われていた存在だったのです。

社会のそのような偏見があることを知りつつ、あえてレビは取税人になっていたわけですが、その詳しい理由はわかりません。もしかして、緊急な経済的な必要があったのもしれません。

レビはローマ人に仕える取税人になってしまって、社会の冷たい批判に晒されながらユダヤで生きていました。彼は存在を否定されるような言葉も投げかけられたことでしょう。

イエス・キリストはレビの心の中を知っておられたはずです。キリストは彼に対して「わたしについて来なさい」と言いました。そのキリストの言葉の中には、「あなたは神から遠くない。わたしはあなたを受け入れる」という内容を含んだ言葉でした。

3.招いておられるお方(神)。

人間という者は、その時代の社会の価値観で自分や他人を見ているものです(レビが当時のユダヤ社会の価値観で自分や周りの人を見ていたように)。たとえば、間違い探しばかりさせられる日本の教育によって、私たちは「間違いは悪である」と思ってしまう傾向があります。その結果として、重大な間違いを犯したような時には、生きる意味を失う可能性もあります。

その時には、いわゆる健康でない時を迎えたことになりますが、それは別の価値観を基にして生き始めるチャンスともなります。

イエス・キリストは語りました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

この場合の「正しい人」とは、自分の生き方で修正することはありませんと主張する人で、「罪人」とは神によって修正される必要があると心から願っている人を指しています〔ギリシャ語の「罪」(ハマルティア)とは神との関係における「的外れ」を意味します〕。

あなたは今、自分の価値観に行き詰まりを感じているかもしれません。ぜひ、あなたを存在させたお方(神)に目を向けていただきたいと思います。

神の御子であるイエス・キリストは「わたしについて来なさい」と語っておられます。