《判断基準》

ある本に、一人の女性と精神科医のやり取りが記されていました。

「先生、助けていただけないのですね。」

「ええ、そうです。・・・残念ながらこればかりは。ご自分でどちらを選びなさるかは、だれにも口出しのできないことなのですから。」

この本の中で、その精神科医は次のように状況を説明していました。「私が、この患者さんに、こう言ったのはそれなりの理由があったからです。それは、彼女が、もう三十も半ばを越えているのに、それまでの歩みの中で、自らが、自らに対してなさねばならない自己決断をほとんどなすことなく、親や周囲に寄りかかっていたことがわかっていたためです。彼女は口を開くと「親が悪い」「結婚生活が失敗であった」「夫が独断的であった」などと、不平、不満をかこつのに事欠かなかったのですが、実は、それを引き起こしているのは、決断すべき時に、決断しない自分であるのに気づかず、話し合いはいつのまにか周囲に責任が転嫁されることに終始していたのです。」(1)

 無神論が一般的である日本の社会では、宗教に頼る者は自分で決断することができない者であると考えている人が多いように思います。紹介しました患者と精神科医とのやり取りですが、実は精神科医のほうがキリスト教の信者(クリスチャン)です。このことからもわかると思いますが、キリスト教会に来ている者たちは、依頼心が強い者ではなく、むしろ自分で物事を判断して決断している者たちです。

最近では特に若い人たちの中で、自ら考えるよりも、誰かに具体的な指示を求める人が多いように思います。この精神科医は、その女性が右か左かというような指示を出して欲しいことがわかっていました。もし、何かの指示を与えたとしても、多分期待通りにはならないだけではなく、医者に責任を転嫁することが予想できたのだと思います。

自分で物事を正しく判断するためには、基本となる判断基準が必要です。人によっては、それが「いかに得をするか」ということが基準の人もいますし、「周りの人とだいたい同じであること」という人もいます。しかし、ある時には損をすることもあれば、周りの人と同じ状態にはなれない場合もあります。そのような時は、まったく方向性が違う判断基準に目を向けて欲しいと願っています。

キリスト教の経典は聖書ですので、クリスチャンは聖書を物事の判断基準としています。聖書が語る物事の判断基準は、「神を愛すること」と「隣人を自分と同じように愛すること」です(2)。そのようなことが何の益になるんだと思う人もいるかもしれませんが、これは自分で物事を正しく考えるための、ひじょうにすぐれた基準です。「神を愛する」とは、正義を愛することと考えてよいと思いますし、神が最終的に正しく裁いてくださると期待することと考えてよいと思います。また、「隣人」とは出会う人や関係するすべての人を指しています。そして、「自分と同じように」という部分もひじょうに重要で、自分以上に隣人を愛せよとは言われてはいません。自分を正しく愛することは当然だという前提があります。これが今から3,500年もまえから語られていたという事実のなかに、神の知恵を見ることができます(新約聖書は約2,000年まえのキリストの時代直後のことが記されていて、旧約聖書はそれ以前のことが記されています)。

ぜひ、教会においでくださり、正しい解釈のもとで、聖書を学んでくださるように願っています。〔大泉聖書教会牧師 池田尚広〕

(1) 工藤信夫著『魂のカルテ』、いのちのことば社、P.5354

(2)旧約聖書:申命記65、レビ記1918

    新約聖書:マタイの福音書223739

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