《細川ガラシャとイースター》

細川ガラシャという名前を聞いたことがあると思います。明智光秀の娘で細川家に嫁ぎ、その後クリスチャンとなった人です。ガラシャとは信者となった時に与えられた洗礼名で正式な名前を細川玉といいます。

歴史に詳しい方はすでにご存じだと思いますが、本能寺の変のあと明智光秀は細川家の応援を期待していましたが、細川家は特に動くことはありませんでした。そのことを豊臣秀吉は評価し歓迎したことで、細川玉は難しい立場に立つこととなります。細川玉の夫である細川忠興は妻の命を守る意味で、丹波の辺境の地であった味土野(みとの)に幽閉しました。その時の細川玉の心境について、ある歴史家は次のように記しています。

「玉は、味土野の地では、より豊かな光を見つけることはできませんでした。しかし、かつて、忠興の大の親友であったキリシタンの高山右近を紹介され、その口から語られた、デウス(神)の教えのことは心の片鱗に残っており、幽閉時代に玉の世話をした次女は父親がキリシタンということもあり、彼女が醸しだす人の心を包み込むようなたたずまいに、いつしか玉の心は安らぎを覚えていたと考えられます。」(1)

1584年、秀吉の許しにより玉は二年に渡る幽閉生活を終え、夫の忠興が大阪に作った屋敷に戻ることができました。しかし、忠興は謀反人の娘を人に晒すことを恐れたのか、屋敷の中で玉を幽閉する手段をとったのです。そのような状況の中で、玉は決死の思いで屋敷を抜け出し教会に向かったのは1587年のことでした。その時の緊張した場面を宣教師フロイスは次のように記しています。

「教会に着くと、幸運にもその日はちょうど復活祭(イースター)にあたり、折から正午過ぎであった。奥方は教会を眺めて、とりわけ彼女の目に美しく映じた救世主(キリスト)の新しい肖像を喜んだ。内装の装飾、祭壇の造作と清潔さ、教会の地所なども彼女を非常に満足させた。彼女はしばらくそれらのものを眺めた後、内部に取り次ぎを乞うた。そこには説教を聞きたがっている数人の婦人たちがいた。」

 玉が必死の思いで大阪の教会を訪れてから5ケ月後に秀吉は伴天連追放令(ばてれんついほうれい)〔宣教師の追放令〕を出しました。そのような状況の中で、玉はキリスト教の入信の儀式である洗礼を受ける決心をして洗礼を受けたのでした〔洗礼名ガラシャは英語ではグレイス(恵み)という意味〕。

 当時の宣教師たちは神の全知全能の性質と、人を大切に思っておられる性質を強調しました。「愛」という言葉が男女の情愛を想像させた当時、宣教師たちは「愛」を「お大切」と訳しました。玉は、以前は禅宗の考えを持っていたようですが、自分が強くなるのではなく、この世界のいっさいを握っておられて自分を大切に思っておられる存在に身をゆだねる恵みを知ったのではないでしょうか。これは、いわゆる運命を信じるような諦め(あきらめ)の境地からくるものではありません。神は私たち一人ひとりを意味と計画を持ってこの世に存在させました。その事実を信じることにより、安心と明日を生きる力が与えられるのです。

〔大泉聖書教会牧師池田尚広〕

守部喜雅著「明智光秀と細川ガラシャ」フォレストブックス参照、(1)p.118

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