《求める》

 最近は、『求めない』という本も出版されています。ある分野においては、感謝して受け入れるとか、足ることを知るということは必要です。しかし、ある分野においては、次の段階を求めることや、願いを口に出すことも必要です。

 浄土真宗は「祈りなき宗教」だそうで、弥陀にすべてをゆだねるなら無限の満足があると教えるそうです。昔、亀谷凌雲(かめがやりょううん)という牧師がいました。この人は、浄土真宗の僧侶からキリスト教の牧師になった人です。寺で育ったということと、東大哲学科で宗教学を勉強しているということで、本山から僧侶の免許をもらいました。小樽の旧制中学校の英語教師を数年間したあとで、故郷の富山に帰って僧侶になったわけですが、小樽にいた頃、祈りについて学んだことがありました。金森通倫という牧師に会ったときに、祈ることを勧められました。祈りなき宗教に自信を持っていたのですぐには祈らなかったのですが、あとで、何事もやってみなければわからないと思って祈ってみました。その頃は、祈る対象を明確には理解していなかったようで、その時の祈りは幼稚な祈りだったと後で告白していますが、祈らないよりは祈るほうが、はるかに良いことだと気づいたそうです。

たとえば、次のように言っています。

「汽車に遅れかかると、どうか間に合わせてくださいと祈るのである。今までなら、仕方がないと思ってあきらめてしまい、ブラブラ歩くのだが、祈ると力が与えられてくる。一生懸命歩く。われならぬ何ものかが加わるのを覚える。もちろん間に合う可能性が多くなるわけだ。間に合わないだろうと思われたのに間に合う場合があるのである。祈らないよりはたしかにいい。間に合わないでも、真剣になっただけ品性が高められているのだ。今度は学校で授業に出る前、いい授業ができますように祈るのである。どうか生徒の健康が加わるように、知識が深まるように、徳性が高まるように祈るのだ。祈らずに出た時よりもたしかによい。授業に力が与えられる。生徒への愛が増してくる。こうした己の職務のために祈る。これはたしかにいいことだとわかってきた。」(※1)

 人によっては、祈ったのに何も変わったことがないと、祈っても無駄だと思えてくると思いますが、亀谷氏は「間に合わないでも、真剣になっただけ品性が高められているのだ」と言っています。これは、今まで祈ることを完全に否定してきた者だからこそ味わう感覚なのかもしれません。

また、願う者は自分が果たす分はしっかり役割を果たし、自分の分を超えていることはよろしくお願いしますという感覚を、当時の亀谷氏は持っていたと思います。そうでなければ、汽車に間に合うように急ぐことはなかったでしょう。

 それから、神聖なる存在に対して祈っているという感覚がなければ、祈りの中で品性が高められるということはないと思いますが、当時の亀谷氏は神聖なる存在を念頭において祈っていました。

 人の歩みの中では、願うよりも受け入れるべきことも多くあります。たとえば、「自分の根本的な性格が変えられるように」というようなことは願うべきではなく、そのような性格を与えられたと受け止めるべきです。しかし、短気であるとか、すぐにイライラするとかいうことについては、変えることができますようにと祈ることは良いことです。ただし願う者は、神聖なるお方に対して祈っているという思いと、自分が果たす分があるかどうかも考えながら祈る必要があります。

 イエス・キリストが言われた「求めなさい。そうすれば与えられます」(※2)という言葉は、求め続けなさいという意味があります。求め続けることはエネルギーが必要です。しかし、その祈りが叶うことで、あなたや他の人に良いことがあるなら、祈る意味はあります。また、たとえ祈りが叶えられなかったとしても、亀谷氏ように祈るなかで品性が高められるなら、祈って求めることは良いことです。ぜひあなたも祈ってみてください。わからないこともあるかもしれませんが、ぜひ教会においでくださり、祈りやその他のことを学んでいただきたいと思います。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。     (大泉聖書教会牧師 池田尚広)

亀谷凌雲(かめがやりょううん)1888年富山市生まれ。東大卒業後、小樽中学と富山中学で4年余教諭として働く。富山での教諭時代には、実家の寺をついで僧侶の立場でもあったが、その後キリスト教の学校に行き、本山から破門される。富山新庄教会にて長年牧師として働く。

     1「仏教からキリストへ」(亀谷凌雲著、亀谷凌雲先生図書保存会発行、P43)

     2(新約聖書マタイ福音書7:7)