《真の平和》

 毎年8月になれば、私たちは終戦記念日を迎えますから、誰でも平和な世界が続くことを願うと思います。

 平和の基礎について、真珠湾攻撃の総指揮官だった淵田美津雄大佐の経験から学ぶことができます。淵田大佐は、終戦後しばらくしてキリストを信じてクリスチャンになった人物として知る人ぞ知る人物です。1941年12月に日本はハワイの真珠湾を奇襲し、淵田自身が「トラ・トラ・トラ」(われ奇襲に成功せり)と報じました。

 終戦後、淵田は郷里の奈良県に帰りましたが、戦後は職業軍人たちが戦いを好んで国を滅ぼしたという非難に耐えて生きなければなりませんでした。

また、終戦直後に東京裁判がありましたが、彼は戦犯とはされませんでしたが、C級戦犯とされた者たちのアメリカ兵捕虜への虐待の罪に関する証人として喚問されたそうです。その時に、彼は戦勝国だって捕虜の虐待という戦犯該当者はいるはずだと思い、日本兵捕虜からアメリカ側の扱いを調べてみる決心をしました。

 ところが、いろいろ聞き回っているうちに、ある米軍キャンプにいた日本兵捕虜から次のような美しい話を聞いて、心をうたれました。その日本兵捕虜がいるキャンプに、一人のアメリカ人のお嬢さんが現れるようになって日本兵捕虜に親切を尽くしてくれたそうです。何週間も熱心に立ち働くそのお嬢さんをみて、日本兵捕虜全員が「どうしてそんなに親切にしてくれるのですか」と尋ねました。お嬢さんは最初は返事をしぶっていましたが、皆があまりにも問い詰めるので、やがて返事をしましたが、その返事が意外な答えだったそうです。「わたしの両親は日本軍によって殺されましたから・・・」

 詳しく聞かしてくれと、日本兵捕虜たちが言うもので彼女は身の上話をしました。彼女の両親はフィリピンで宣教師をしていて、日本軍がフィリピンを占領した時に難を避けて山に隠れました。しかし、日本兵に発見されて、刀で斬られることとなりました。両親は死ぬ仕度をしたいから30分くれと願い、聖書を読んで神に祈ってから、斬られていきました。やがて、そのことはアメリカで留守を守っていたお嬢さんのもとに伝えられました。しばらくのあいだ、彼女の心は憎しみと怒りでいっぱいだったようです。しかし、ある静かな夜、両親の殺される前の30分、両親はいったい何を祈ったのかと思いました。すると、お嬢さんの気持ちは、憎悪から人類愛へと転向したというのです。 

ただ、彼女の経験はいい話に思えても、この時はまだよくわかっていなかったと淵田は書いています。しばらくしてまたGHQから出頭命令が来て東京に行く時がありました。渋谷駅で下車した時に、駅前でリーフレットをもらいました。それは、爆撃機で爆弾を投下する仕事をしていたアメリカ人のキリスト教への入信手記でした。この人は日本軍の捕虜となって虐待を受けた時に、かつて聞いたことを思い出し、聖書を調べてみようと思ったそうです。彼が開放されてのちに、聖書を読んで信仰を持ったという内容でした。淵田は自分も聖書を読んでみようと思い、聖書を購入し読みました。自分を殺そうとする者たちのためにキリストが十字架上で祈った祈りで、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(※1)という箇所がありますが、そこでハッとあのアメリカのお嬢さんのことが淵田の心にひらめきました。淵田は、小冊子に次のように記しています。「敵をゆるしえるこの博愛、今こそわたしはお嬢さんの話がかっきりわかります。お父さんやお母さんが斬られる前の祈りを思ったとき、このお嬢さんの気持ちは180度の転向を示したと聞いたのですが、わたしもこの両親の祈りを思ってみるのでした。“神様、いま日本軍隊の人々が、わたしたちの首をはねようとするのですが、どうか彼らをゆるしてあげてください。この人たちが悪いのではありません。地上に憎しみ争いが絶えないで、戦争などが起こるから、かようなこともついてくるのです”今、お嬢さんが日本人を親の仇として憎み恨めば、やがてまた憎しみはもどってきて果てしなく続くであろう。まさに憎悪こそは人類相克の悲劇を生んだ。そして戦争ともなれば、こうした残虐行為は必然ついてくる。この父の子、この母の娘として、お嬢さんが両親の祈りに応えるあり方は、キリストの十字架のゆるしを日本人に知らせることだと、あの若いお嬢さんは、けなげにもそれを実践しようと日本軍捕虜キャンプに走ったのです。」(※2)

 淵田はその後キリストを信じて、キリストと真の平和を語る者となった。

(※1)新約聖書ルカの福音書23:34

(※2)「真珠湾からゴルゴタへ」−わたしはこうしてキリスト者になった(大阪クリスチャンセンター発行)抜粋

教会ではあなたのおいでをお待ちしています。

(大泉聖書教会牧師 池田尚広)