《国際社会の中で生きる》

 NHKラジオの「英語会話」の講師だった東後勝明氏は、50歳代でキリスト教信仰を満ちましたが、次のようなことを言っています。

『日本にいるとあまり感じないが、海外に出ると私たちは宗教にとても無関心であることを思い知らされる。出入国の書類に「宗教」という欄があり、大抵の人は「なし」(None)としてしまう。すると、「宗教を持たない人とはどんな人だろう」と思われてしまう。そこで慌てて、「そうそう、日本の宗教は仏教」と思い出し、ブディズム(仏教)と言ってみても、なんとも空虚に聞こえる。日常の中で信仰としての実体が希薄だからである。・・・私たちは「神」ということばを聞いただけでむしろマイナスイメージを持つ。神とは抽象的でつかみどころのないもの、頼りにならないもの、非科学的なもの、といった具合である。そうかと思うと、神は何か深刻な問題を抱えた人や普通でない人のためにあるもので、私には関係のないものと葬ってしまう。従って、日常会話の中に不用意に「神」を持ち込むと、「あの人、ちょっと変わっているね」ということになってしまう。では、どうして神はこのようにマイナスイメージで捉えられるのだろうか。一つにはあの忌まわしい戦争の影響がある。皇室と神道を中心とする日本特有の宗教観の元に、天皇を現人神と仰ぎ、その神の国のため、国民が一丸となって戦い、敗戦の憂き目を見た。そのことから、どうしても「神」ということばがひきずるイメージは暗いものにならざるを得ない。・・・さらに、「神」には新興宗教やカルトのイメージもつきまとい、宗教全般に不信感を抱くようになり、「神」や「宗教」についても考えることすら敬遠してしまっている。その結果、日本は生きた信仰のない国になってしまったと思えてならない。』(※1)

 日本だけが独特だというわけではないとしても、東後氏が言うように、「宗教」に対する国民が持つイメージにおいて、日本は独特な部類に入ると思います。国民が宗教を敬遠する理由として東後氏が挙げたものの他に、たとえば、わが国が急速な近代化を経験したということがあるように思われます。明治以降の急速の近代化は、宗教に頼ったり、縛られたりすることは、古い人間のすることであり、弱い人間のすることだという固定観念を日本人に植え付けたように思います。欧米に右へ倣えでやってきた近代化ですが、欧米では日本人が持ったような極端な考えを持ったわけではありませんでした。では、なぜ日本人はそうなったのでしょうか。私は、今まで日本人が木や石や紙で神を作って拝んだりしてきたことが一つの原因だと思います。

 近代化に伴って個人主義的な視点が与えられた人々は、木や石の神を拝む習慣を程度の低い行為と思ったように、宗教全般に対しても程度の低いものと思ったのではないかと考えています。それで、無宗教という立場が、人間として誇らしい生き方だという考えが確立していったのだと思います。さらに、その後の諸外国での宗教対立のニュースなどを聞くなかで、さらにその立場を強くしていったように思います。

 オウム真理教などのカルトの問題が出てきた時には、多くの日本人は今まで以上に宗教と名のつくものを拒否し出しました。しかし、なかなかカルトはなくなりません。ある人は、弱く、すぐに何かに頼りたがる人が増えたのが原因だと言います。そして、人間として成長していない人が増えたことが原因だと言います。

しかし私は、人は無宗教状態では生きられないということが、すべての原因だと思っています。一切の宗教的要素を味わわずに大きくなっていった青年たちが、カルトが語る宗教的要素に、我を得たような思いになって没頭した結果が、オウム事件の背後にはあるのではないでしょうか。人間は本質的に宗教的要素を求める本能があります。それを無視すれば、オウムに入信した青年たちの家族が味わったような経験をするかもしれません。幼いうちに、健全な宗教的要素を味わわせておくことは大切です。特定のものだけを神と認めれば、他のものを否定したということになるので、公平な感覚が身に付かないという親もおられます。しかし、平和な社会とは、みんなが無宗教であるような世界を作るのではなく、自分の考えをしっかりと持ち、また、他の人の考えも尊重する社会です。宗教的なことを、ちょっと紹介されただけで腹を立てたり、気分を害するのは、自分の考えをしっかりと持っていないからです。また、自分が何かの信仰を持っている人でも、別の宗教のことを紹介されたら腹を立てるのは、自分の信仰に自信がないからです。もちろん、宗教的なことを語る側も相手に敬意を払うべきですが、話を聞く側に自信がないので、争いになることもこの世の中には多いのです。ぜひ、あなた自身の立場をキリスト信仰の中に持っていただきたいと願っています。教会ではあなたのおいでをお待ちしています。      大泉聖書教会牧師 池田尚広

(※1)「ありのままを生きる」(いのちのことば社)